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5/16 朝から疲れてしまったけど

朝から疲れてしまった。
時間だからそろそろご飯食べよとか、食べ終わろうとか、着替えようとか、何を伝えても全然行動に反映されず、いよいよ8時になり、これは本格的に小学校に遅刻するんじゃないかと思った。
時計を見てと言っても全然急ぐ様子もなく、もういいやと思った。
どうしたらいいのか正直に言うと、分からなくなった。
なんかお母さん一人でまた怒ってるくらいに思ってるのかもしれないし、そうなら空しい、悲しい。
遅刻しないためにもっとヒートアップして伝えても、きっと息子もわたしも嫌な気持ちになるし、それならば、このまま遅刻するのもひとつの経験なのではとまで考えた。
長い針が2になりかけてようやく息子は半泣きで急ぎ始めた。
ひりひりした空気のまま家を出る。
そりゃわたしだって子どもに遅刻はしてほしくない。
ランドセルを預かり、わたしが自転車を取りに行っている間にも、学校の方面へ進むよう告げる。
いそいで自転車を取りに行き、かごにランドセルを入れ自転車を漕いだ。
息子と合流する。
息子は小走りで進む。
その後ろを自転車でついていった。
こんな状況であっても、わたしは心の中で、なんかマラソンしている人の後ろで自転車に乗り激励している人みたいだなとのんきに思いついてしまった。
無事に学校へ着いた。門がしまる4分前であった。
息子はいつもよりしょんぼりしていた。
わたしは「遅刻しなくてよかったじゃん。あとはいつも通り楽しんできて」と出来る限り明るく言ったが、しょんぼりして息子を見て、しょんぼりした。

そのまま娘を保育園に送り、わたしは仕事へ。
東京には、車は一切通らず、自転車と人間のためだけのただひたすらに真っすぐ進む長い道があって(地元にはなかった)わたしはその道をずいずいずいずい自転車を漕ぐ。
ランナーのうしろにつくことが何度もあるのだが、ランナーは息子じゃないからうしろについていく必要はない。
隙があればランナーを追い越す。

仕事場につき、動き、終える。

帰りは行きよりぼーっとしながら自転車を漕ぎ、急に、わたしは子どもたちに求めすぎなのではと思った。
子どもたちが、まだ正真正銘の赤ちゃんだった時、ひいてはお腹にいる時、ただこの人が健康に生きて存在してくれてればそれでいいって思っていたじゃないか。

子どもたちを迎えにいき、朝微妙な空気で別れた息子がほっぺを真っ赤にして、お外でいっぱい遊んだと楽しそうに報告してくれ、ほっとした。

家に帰り、息子は音読の宿題をし、しばし静かだった娘に「ねえねえ見て」と言われて娘に注目すると、あたまにカチューシャをつけて顔を決めていた。
カチューシャにはおもちゃの光る指輪をいくつかくっつけており、ちっかんちっかん規則的に輝いていた。
「かわいい?」と聞いてくるので「かわいいし、賢いね」と褒めた。
見るからに楽しそうな人がいて、家の中が物理的にも気持ち的にも明るくなった。

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