平和な社会の源

いつもお読みいただきありがとうございます😊本質の追究者の武井義勇(たけいきゆう)です。

今日は、佐々木俊尚さんのVoicy【2024.2.24 特定の人の人権を絶対視してしまうことは実は危うい】の回からの考察です。

僕は考えることが大好きです。考えていくうちに、最終的に行き着いたのは、社会にある根源的なものでした。それは


「相互尊重」


です。おそらく、僕が社会問題の根元だと考えているのが、この相互尊重というものだと思います。考えれば考えるほど、ここに帰着してくるからです。


今回の佐々木さんのVoicyでもここに行き当たりました。平和な社会を構築するために欠かせない、相互尊重という思想について記していきます。



佐々木さんの放送では、特定の人の人権を守ろうとするとそれ以外の人の人権が生かされなくなるよね、といった話でした。その例として、現代のテレビ番組の構成の仕方を挙げています。


現代ではコンプライアンスが叫ばれるようになり、「人権意識」が高まることで、少しでもそれに違反する番組が出てくると、一斉に攻撃されるようになっています。例えば、昔は熱湯風呂のような企画で多くの人が大笑いしていました。ダチョウ倶楽部のネタにすらなっていた熱湯風呂は、今見ても面白いです。


しかし令和の今あの企画をすれば、必ずネットで袋叩きに遭います。「芸人の人権を何だと思っている!」「下品なものを視聴者に見せるんじゃない!」といった感じです。それを行っている芸人自身が、それを了解の上で行っていることであっても、「人権という棍棒(佐々木さんの言葉を借りて)」を振りかざして企画した人を攻撃するわけです。


だから面白い番組が作れなくなっているとボヤいたテレビ局の方のお話でした。


僕は同じようなことを感じていて、テレビドラマやアニメなどは、とても上品になったと思います。それは喜ばしいことではあるのですが、あまりにも綺麗すぎて、作品に違和感を覚えることもあるのです。


最近は、ドラマ等でタバコを吸うシーンはほとんど見かけなくなりました。暴言を吐くベテラン刑事も出てこなくなりました。コンプライアンスに引っかかるからでしょうね。


けれど、一方の人権や倫理観を守ろうとすればするほど、他方の人権が蔑ろにされることが多々あります。


例えば、子供の権利を守りましょうといった場合も同様です。学校では、子供の人権を守ることを重要視するようになってきました。


学習権がある子供には、授業を受けるかどうかの選択権もあります。だから今は、不登校気味の子に「無理して学校に来なくてもいいよ。」と伝えることが一般的になりつつあります。これは子供の人権を守るという意味で良いことです。


しかし一方で、授業中に逸脱行為をして、多くのクラスメイトに迷惑をかけている子供に対しても、人権を振りかざして権利を主張する人がいます。子供には学習権がある。だからそういった子供を受け入れましょう、といった感じです。


この時、その子供の人権は守られますが、それ以外の子供やそこにいる教員の人権は守られていません。子供の人権を絶対視すると、それ以外の人の人権が蔑ろにされる例ですよね。


佐々木さんは放送の中で次のようにおっしゃっています。

「人権というのは絶対ではなくて、現代においては、互いの人権を尊重しながら折り合いをつけることを前提とする必要がある」

と。この「折り合いをつける」人権意識というのがめちゃくちゃ重要です。


Aという人の人権による自由と、Bという人の人権による自由がぶつかった時には、相互の人権を尊重して話し合いを行わなければならないのです。どちらかの主張が、人権を前提として一方的に振りかざされた時、それは暴力であると言えます。


捕鯨禁止を訴える団体が、捕鯨船を攻撃して沈没させようとすることなどは、人権(鯨だけど)を振りかざして自分たちの正義を押し通す、ただの犯罪行為です。こういった事例を認めるわけにはいきません。


人権を尊重するというのは、非常に難しく、かつ面倒くさいことだと言えます。一つ一つ話し合いを行っていかなければならないからです。自分の主張を通すのではなく、相手の主張を聞き妥協点を見つける作業。これを繰り返すことが、社会には必要なわけです。


僕は世の中のトラブルのほとんどは、この相互尊重が崩れたところに起こっていると考えています。それは同時に、相互尊重を成り立たせることが、トラブル回避には絶対に欠かせないということでもあります。



先程の教室での例を挙げて説明します。


今の日本の公立校では、35人以下の子供たちを1つの学級として構成し、国が定めた学習指導要領に従って教育活動を行うシステムになっています。大多数の公立校では、このシステムの中で活動しています。


すると授業を行っている際に、好き勝手行動している子供がいた場合、周りにとって迷惑がかかることが出てくるのです。紙飛行機を作って飛ばしたい子がいたとしても、それが教室内を飛んでいることによって集中できない子が出てきます。お菓子を食べながら授業を受けたい子がいたとしても、音や匂いが気になって授業に集中できません。


当然、大多数の子供の学習環境を整えるためには、どうしても集団をコントロールするためのルールが必要になります。


しかしこのルールは、一部の子供たちにとっては不都合なものである場合があります。その一部の子の人権は侵害されるかもしれません。では、一部の子のためにルールを撤廃するのがよいのでしょうか?そうなると今度は、そのルールで生きやすかった子供たちにとっての不都合が起こるわけです。


だから折り合いをつける必要が出てきます。それが僕は「合理的配慮」という言葉になるのだと思います。


例えば、椅子に座って45分間授業を受け続けることがしんどい子には、教室の最後列にその子の席を置いて、疲れたら床に寝そべってもよいことを、みんなと合意しておくのです。ただしその子には、他の子の集中力を乱さないように、音を立てたり、オーバーアクションをしたりしない条件をつけておくのです。


このようにしておけば、その子単体で見てみると授業に参加していない困った子に見えるかもしれませんが、クラスのみんなにとっては全く迷惑にならない存在になります。


このようにして、どこかの妥協点を見つけて合意形成をしておくことが、相互尊重の社会には欠かせないことなのだと思います。

さらに、この合意形成ができていれば、トラブルを大幅に減少させることができます。



いじめが問題になるのは、それが一方の人権を大きく侵害するからです。授業中に突然大きな声を出してじう子がいて、その子がいじめられていたとします。いじめている方に理由を聞くと「うるさくてムカつくから」という答えが返ってきたとします。


この理由がいじめをしてよい理由にはなりませんが、ただ単に「いじめをするな」と言っても解決しないですよね。

ここでは、二人を突き合わせて、本音を伝え合わせます。「僕は暴言を言われたり、物を隠されたりしてすごく傷ついた。」「オレはお前が授業中に急に大声を出すのが不快だ。」といった感じです。

そこから「ではいったいどうしたらいい?」と促して考えさせます。

この時、どちらか一方の主張を採用するのではなく、互いがある程度納得のいく答えを見つけなければなりません。ここで大切なことが、「自分も痛みを背負いこむ覚悟をすること」です。


相互尊重には、痛みが伴います。自分の主張や意見が100%通るわけではないことを合意しておくのです。社会において、自分の意見が100%通ることはほぼありません。それは自分と同じ価値観の人ばかりではないから当然のことです。


だから、ある程度の納得感が得られればそれでよしとするのです。それが相互尊重の本質なのだと僕は考えます。


僕が世の中を見ていて思うことは、相互尊重が崩れた状態、即ちどちらかの意見や主張ばかりが取り上げられた状態は、見ていてとても不快だということです。僕にとっては、平和とは思えない状態です。


ロシア・ウクライナ戦争が2年経ったいまでも終わらないのは、痛みを伴いながら相手を思いやることができずにいるからです。自国の利益「しか」追求しないから終わりが来ません。


みんなが平和に過ごしていくためには、相互尊重が必要不可欠です。そしてそれは、自分もオッケー、あなたもオッケー、みんなもオッケーという合意形成のもとで成り立つものです。そこには一定の我慢が必要です。


しかしこの我慢をせずに放置し続ければ、永遠に平和は訪れることがなく、今よりも更なる不幸を呼び込むことになります。どちらの世界が自分にとって居心地が良いのか。冷静に判断すれば分かることでしょう。


みんなでもっと痛みを分かち合いましょう。そうすればきっと平和な社会が築けます。自分ばかりを大切にせずに、自分と同じように他者も大切にしてみてはいかがでしょうか。


相互尊重を平和のベースに据えていきましょう。


最後までお読みくださりありがとうございました。



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