みんなに愛されたい! 轟音鍵盤バンド「P.O.A.」ヒストリー
轟音鍵盤バンド「P.O.A.」は、どんな大きさのライブハウスでもハモンドオルガンとレズリースピーカーをはじめとする大量の機材を持ち込み、ステージ上を飛び回り、グラインダーで勢いよく火花をあげるライブスタイルで、お客さんの視線を釘付けにすることから“対バンキラー”と呼ばれています。
私は1996年からP.O.A.のライブを撮らせてもらっていますが、その誕生や足跡は知らないことだらけ。今回、結成30周年を迎えるのを機に、あらためてP.O.A.の歴史についてバンドリーダーのカワケンこと川井健さんに聞いてみました(※本記事はインタビューをベースに作成しています)。
(インタビュー・文章/弓削ヒズミ)
P.O.A.とは、どんなバンド?
●現在、P.O.A.のメンバーはカワケン1人だけですが、ソロ活動ではなくバンドなの?
バンドだね! J-POP界では3人以上がバンドで、2人だとユニットと言われているみたいだけど、バンドであると言い張りたい。例えば人前でアンサンブルを聴かせる時は、ドラムだったり、キーボードだったりサポートメンバーが入るように、プロフィール上とステージ上のメンバー数が異なることはあるよね。
ここ数年、P.O.A.では、松本淳さん、MAD大内さん、實成峻くん、石川達也くん、望月純くん、たくさんのドラマーにお願いしてきたけど、彼らには、歌モノのサポートのようなプレイではなく、自分のバンドのように「俺のプレイを見ろ!」と自己主張して欲しいと伝えています。
プロフィール上で“バンド”という体裁を整えるより、聴いてくれる人やステージを観にきた人に、他とは違う“バンド”として受け取ってもらいたいな。
●音楽ジャンルとしてはプログレッシブロックでいいの?
P.O.A.はね、“みんなから愛されるバンド”を目指しているの(笑)。たしかにプログレッシブロックもバックボーンとしてあるけど、70〜80年代の進化系というわけではないし、あくまでもサウンドの切り口として考えています。かつてのプログレバンドのように演奏や楽曲だけを聴いてくれというストイックさはないし、ただ可愛がられたい! 一時期、「渋谷系プログレッシブロック」と表現していたけど、「愛されたいエンタメ轟音ロック」といった感じかな。
P.O.A.前夜、Bonnie Duck!?の解散について
●ここから本題であるP.O.A.の歴史について聞きます。結成に至るまでの流れとしてP.O.A.以前の「Bonnie Duck!?(ボニーダック)」(※)の頃から教えてください。
ボニーダックは、1990年以前から大阪や兵庫を中心に活動していたけど1992年のメジャーデビューが決まった際、前任の女性キーボードが辞めてしまい、オレが後釜として加入しました。
加入した経緯なんだけど、きっかけは、すごくいい加減な紹介なの。メンバー全員が上京してキーボードを探していたところ、レコード会社の稲葉さん(現・株式会社トイズファクトリー代表取締役社長)が「すごいキーボーディストがいるぞ」って俺のことを紹介してくれたんだ。だけど稲葉さんもメンバーもオレの演奏なんて1度も聴いたことがない! オレもメンバーも全員騙されて入っちゃったんだよ。
※Bonnie Duck!?(ボニーダック)=1988年 - 1993年活動。メンバーは、Vo.柴田英人、Gt.森本明人、Ba.前川和人、Per.飯田ヒロシ、Key.川井健。1992年にアルバム『ボニーダク男』でデビュー。解散後、Gt.森本とBa.前川は「Electric Eel Shock」を結成して国内・海外で活動中。
バンドはアルバムを3枚出したところで、レコード会社からもプロダクション事務所からも終了ですと言われたよ。アマチュアとして活動していくか、解散するかを話し合った結果、1993年10月解散。解散の翌1994年、森本社長と前川くんは「Electric Eel Shock(エレクトリック・イール・ショック、以下EESと表記)」を結成。P.O.A.は彼らの後から始めたんだ。
●ベースの前川さんは初期のP.O.A.でもベースを弾いていますね。カワケンと森本社長の3人で一緒にバンドを組むという選択肢はなかったの?
3人で一緒という発想はなかった。EESの初期ではオレがキーボードを弾いたり、森本社長もP.O.A.で弾いたりしたけど、どちらも正式メンバーになる考えはなかったね。ボニーダック後期では、オレ、森本社長、前川くんの3人で音楽の深いところまで真剣に話し合って、お互いにリスペクトする関係だった。それは現在も同じ。だからこそ、仲はいいけど森本社長の面白さを活かすのはオレじゃないし、自分のバンドをやるなら彼ではないと思ったんだ。
ボニーダックの活動で思ったのは、歌う人には“面白さ”が必要じゃないかなということ。ディスるつもりはないんだけど、ボニーダックはその点で力量不足だったし、ある程度で成長がストップしてしまったと思う。歌う人は宴会の中心となるような司会進行みたいに、遊びの中心にいるような存在じゃないとダメだと考えるようになったんだ。EESの森本社長は自分が歌うってことでそれを実現しようとしたと思うし、自分のバンドでは、そういう存在を迎え入れたいと思ったんだ。
1番面白い人と一緒にバンドをやろう
●そのステージの中心になれるのが、初代女性ヴォーカルのNATSUちゃん(なっちゃん)だったわけですね。現在のP.O.A.しか知らない人からは驚かれるけど、バンド初期はカワケンと女性の2人ヴォーカル体制でしたね。
ボニーダックの後期ぐらいからライブ打ち上げや飲み会の場に面白い娘が参加するようになったの。それがNATSUちゃん。何人もワイワイやっている飲み会のなかでいつでも中心的な存在だった。友だちの中で1番面白い人と一緒にバンドをやろうって考えていたから、もう彼女しかいないなと思った。
たしか千葉LOOKで行われた年越しライブイベントの打ち上げだね、みんなが帰った後、オレとNATSUちゃんは初日の出を見ようと稲毛海岸へ行ったの。その時に「一緒にバンドをやろうぜ!」って言ったのがP.O.A.の始まりだね。
NATSUちゃんは自分で作詞作曲もして歌っていたし、オレもこれまでやってたバンドのヴォーカリストよりも歌える自信があったから、男女2人で立体的に歌ってみたら面白いんじゃないかと思った。意図的に面白さを作り込むよりも、目の前に面白い人がいて、その人から滲み出るものの方が面白いんじゃないかなって。だから当時1番面白い女性だったNATSUちゃん、当時思いつく中で1番面白いギタリストのアータコージ(栗田コージ)を入れて、3人でバンドをやろうと決めたんだ。リズム隊には、ベースの前川くん、ドラムは従兄弟のカボが手伝ってくれて、1994年春、P.O.A.が正式に始動したんだ。
みんなから愛されるロックバンド
●結成してからの動きについて教えてください。
90年代半ばに男女2人ヴォーカルというのは国内では珍しく、当時リファレンスとしたのは、サディスティック・ミカ・バンドだね。ライブでは、『ダンス・ハ・スンダ』、『塀までひとっとび』なんかを演奏したよ。海外だとB-52s、トーキングヘッズあたりのニューウェーブバンドも参考にした。でも、NATSUちゃんは、シュープリームスやマーサ&ザ・ヴァンデラスとかモータウン系などオールドスクールなものが好きだったね。
ライブ活動を始めてから、すぐにレコーディングをしたよ。たしか『ディスコティック・ドラゴン』『Jaguar E type』『Meet the P.O.A!(P.O.A.のテーマ)』の3曲。Meet the P.O.A.は自分たちのテーマとかいいながら、『原始家族フリントストーン』のオープニングの替え歌カバーなんだけどね(笑)。
レコーディングはすごく原始的な録音方法で、ドラムはすでにノリちゃん(中島ノリマー)だった。カボちゃんはライブ1、2回叩いただけ。レコーディングのドラムをどうするか迷っていたら、リハトラを手伝ってくれた山口くんというベーシストが「江古田で1番巧いドラムがいるんだけど」って連れてきたのがノリちゃん。最初にリハをやった時から巧いし、オレの音楽を理解しているなと思った。あとで話を聞いたらラッシュとか好きでプログレ魂もあった。
P.O.A.は“みんなから愛されるバンド”を目指していたけど、当時の曲は、プログレ要素よりもポップスやファンク寄りだったから、プログレ好きのノリちゃんというメンバーと意気投合できたのは嬉しかった。でもファッションはダサかった(笑)。練習スタジオの休憩時間はロビーですぐ漫画雑誌を読み始めるし、メンバーが雑談していても、スッとスタジオに戻って1人で練習している。後発メンバーで年齢も5歳離れているとはいえ、もうちょっと喋れよって感じだったな。
ノリちゃんが入って、NATSUちゃん、栗田コージ、前川くんとコンスタントにライブ活動できるメンバーが揃ったよ。
●1995年には管楽器隊が加わって11人体制になりますね。
話は少し遡るんだけど、ボニーダックの契約更新が怪しくなった頃に、オレはいろいろなセッションに参加したの。チャック・ブラウン&ソウル・サーチャーズがやっていた「ワシントン・ゴーゴー」と呼ばれるジャンルで、コンスタントなファンクビートに乗せてノンストップでずっと1時間近く演奏するんだ。ゴーゴーのバンドは、ホーンやパーカッションが入った大編成が多く、P.O.A.でも取り入れてみたら面白いんじゃないかと思ったの。NATSUちゃんも乗り気になって、彼女の地元である千葉のバンド人脈に声をかけてもらって11人体制になったわけ。
原宿ルイードでライブをやった時はメンバー5人がメインステージで、PA側のサブステージにパーカッションとか乗せてやったよ。とにかく人数がいるからリハのスケジュール調整だけでも大変だった。管楽器の人は譜面で吹くフレーズが決まっていたら、当日のリハに顔出してもらえるだけで大丈夫だったよ。本番ではもっと緻密に構築したかったけど、それでも相当楽しかったな。
バンド名は記号のようなものに
●バンド名「P.O.A.」の由来は? 初期のフライヤーやアンケート用紙には「Persons of Asia」とも書かれていたこともあったけど、それが正式名?
バンド名についてはよく聞かれるよね。正式なバンド名は「P.O.A.(ピーオーエー)」。PとOとAの後ろにはピリオドが付きます。よく最後のAだけピリオドが抜けて表記されるんだけど3文字それぞれに付くので、忘れないようにお願いします!
名前の由来については、アルファベット3文字がいいなと思ったの。まあ4文字でもよかったんだけど、意味を含まない記号みたいな名前にしたかったんだ。ABCでもBBCでも何でもよかった。ただ、始まりは「P」がいいなと思ってた。言葉の破裂音が可愛らしいじゃない。NATSUちゃんとアルファベットを並べながら話し合って決めました。ただ話している中で「Persons of Asia」って意味でもいいねとなって、なんとなくバンド内でも併記されるようになった感じ。
P.O.A.を始めたばかりに「オウム真理教事件」があったから、「ポア」とかイジってくる奴らもいたけど、「Persons of Asia」の併記で、そういうのは多少減っていたかもしれないね。でも、オレは最初からバンド名は「P.O.A.」のみで、「Persons of Asia」と思ったことはないよ。
グラインダーを使い始めたのは大学時代から
●初期P.O.A.ではいま以上にステージ演出にも凝っていましたが、どんなことをやっていましたか。
そうだね、トランポリン、銅鑼など使っていたね。トランポリンはボニーダック時代から使っていて、たしか飯田ヒロシくんの私物でバンドの備品だった。解散の時に置き場がないから引き取ったんだよ。子ども用だから飛んでいるうちに脚が折れてしまって東急ハンズで買い直したんだ。銅鑼は毎回レンタルしてたけど、個人で銅鑼を所有している人から借りて、長い間、借りっぱなしで使っていたな。
ほかには原宿RUIDOで女性ヴォーカルのP-KOをクレーンで吊るしたり、CO2噴出したり、可能な限り派手な演出を盛り込んでいたね。
●グラインダーを始めたのはいつからですか? グラインダーを始めた起源について、何人からか話を聞いていますが、ぜひ本人から聞かせてください。
グラインダーで鉄を削って火花を出すパフォーマンスは、ボニーダック時代からやっているよ。すかんちのサポートをやっていた時にも、大槻ケンヂくんのソロライブでも火花は毎回出していた。1番最初にやったのは大学時代のバンド。P.O.A.初期にやらなかったのは、若干飽きてしまったのもあるし、面白いメンバーが揃っていたから必要もないと思ってたから。P.O.A.では2000年以降の2人体制になってからかな。
オレがグラインダーを使い始めた理由について、いろいろ言われているけど大体間違ってます。さっきも言ったけど初めて使ったのは大学時代。当時のバンドが四谷フォーバレーでライブをやる日だった。この頃からステージで何かしらパフォーマンスをやっていたから、「今夜は何をやろうか」と考えながらフォーバレーの裏路地を歩いていたの。ちょうど目の前に金物屋があって、店主に「グラインダーは、どういうものを削ったら火花がたくさん出るんですか?」と尋ねたら、「それなら柔らかい鉄がいいよ、組み立て棚の鉄柱なんかいいんじゃないか」と言われて、その場でグラインダーと鉄柱を購入して、さっそくライブで使ったのが本当の始まりだね。
グラインダーの発想は、バイト先のおじさんの助言なんだ。大学生で20歳前後のオレはコンサートやお祭りの基礎舞台などを作る大道具のバイトをしていたんだ。そこはバンドマンもいたけど役者や芝居関係者が多かったの。そこで芝居の脚本や演出をやっているおじさんに、「ロックバンドの演出で派手で面白いことないかな?」と聞いてみたら、教えてくれたのがグラインダーで鉄を削って火花を出すことだった。金がない学生でも、それぐらいの出資で面白いことができるんならと使い始めたんだよ。
ロックバンドでグラインダーを使って火花を出しているような人は周囲にはいなかったね。オレ以外でやっているのを見たのは、ボニーダック解散後、パーカッショニストのスティーヴ エトウさん(当時の表記は、スティーヴ衛藤)がドラム缶を削っている姿を見たのが初めて。
創設メンバーの脱退が続く
●1995年の女性ヴォーカル交代の経緯について教えてください。NATSUちゃんが辞めて、どうやってP-KOが入ったのでしょう。
この年、NATSUちゃんは結婚して妊娠。「お腹が重くって活動できないわよ、産んでも子育てするから、しばらくバンドもできない」と言われて、女性の人生を考えたら脱退を承諾したよ。創設メンバーだから、子育ての手が離れるまで待つことも考えたけど、月1ぐらいでライブの予定もあって、世間的にアマチュアバンドシーンも動いていたから、バンドを止めるタイミングではないと判断したんだ。
それで別のヴォーカリストを立てることになって、いろいろ周囲に相談していたの。その頃、大槻ケンヂくんのソロ活動でサポートをやっていて、打ち上げの席で女性ヴォーカルを探している話をしてたら、横で聞いてた女性が「私を入れるのがいいわよ、私歌うまいのよ」って割り込んできたのがP-KO。NATSUちゃんの明るさから比べると暗いんだけど、大槻くんの界隈の中では1番クレイジーでぶっ飛んで面白かったから、1回スタジオで歌を聞くことにしたの。2人ボーカルだからオレの3度上を歌うことが多いので、どこまで高い声が出せるか音域をチェックしたら楽々いけたので加入してもらったよ。
●NATSUちゃんの脱退と合わせるかのように、もう1人の創設メンバーである栗田さんが一時的にバンドから離れていますね。
栗田はめちゃくちゃ面白い人だったけど、音楽に対してストイックというか演奏にも厳しい人だったね。ボイシングであったり、リズムの取り方であったり、アクセントであったり、もっと音楽を磨いていきたいと思っているのに、言葉で説明する前に不機嫌になっちゃうの。レコーディングの仮歌の音程が合っていないことすら気分を悪くして、「なんか、つまんねえんだよ、格好悪いんだよ」ってヘソを曲げちゃう。そうなるとリハーサルに来なくなるし、スタジオに来てもギターを弾かないこともあった。
そういうこともあって粟田は辞めてしまったけど、オレはまた戻ってくるだろうと思っていたので石塚"BERA"伯広さんに事情を説明して手伝ってもらったわけ。ベラくんはVIDEO rODEOなど、いろいろ活動していて忙しかったけどP.O.A.でも快く弾いてくれたよ。
しばらくして、やっぱり粟田は再加入したいと言ってきた。つまらないからバンドを辞めたけど、辞めてみたらもっとつまらなかったんだって。もう1度入れてくれって言われ再加入してもらったよ。だけど彼は辞める前に抱えていた問題は解決していなくて、粟田はバンドへの不満を言語化できずにメンバーには伝えらないまま、再びリハーサルに来なくなる。それにブチギレたP-KOが「あんた2度と来なくていいわよ!」と、電話で粟田をクビにするという面白い事件がオレの目の前で繰り広げられたのは衝撃的だったな。
粟田はもう亡くなっちゃったんだけど、思い返すと、あの頃はオレも若かったし、バカだったから気づけなかったけど、彼が言いたかった研ぎ澄まされた演奏というのが、いまなら理解できるんだ。昔の録音物とかリハの記録とか聴きかえすと、粟田のギターは圧倒的にリズムがよくて、オレをはじめ、みんな付いていけてないの。弾いてるフレーズはシンプルなんだけどリズムがいいし、選んでる音がいいよね。
危機的状況が大きな転換となる
●粟田さんがクビになり、ベースの前川さんがEESの海外活動で離脱。一時的にホセ・メンドーサ(内田雄一郎)がベースを弾き、BARAさんが正式ベーシストで加入という流れで、ようやくP-KO加入後の新体制が揃います。
BARAちゃんは、ベラくんの友だちでVIDEO rODEOでもゲストベーシストをやってたの。VIDEO rODEOは基本打ち込みのアンサンブルなんだけど、BARAちゃんのベースしか聴こえないような音量ですべてを凌駕するめちゃくちゃクレイジーなベーシストだった。しかも演奏も巧い!
粟田が辞めてバンドにはギターがいないんだけど、BARAちゃんのベースがあればギターなしでいけるかもと思ったのよ。ただ、オレは踏み出すまで不安だった。だけどノリちゃんがキーボード/ベース/ドラムのギターレス編成のアンサンブルを後押ししてくれたんだよね。
粟田によってメンバー間の関係が限界まで達してしまったけど、じつは大きな転換点であったんだね。仕方なくこうなっちゃったところはあるけど、考えもしなかった発想が生まれたわけだ。
いまオレのハモンドオルガンは、レズリースピーカーとハイワットの2台のアンプスピーカーを同時に鳴らしいるんだけど、その組み合わせを初めて使ったのが、コンピアルバム『MONDO ROCK JUMBOLEE』(※)に参加した時なんだ。ちょうどBARAちゃん加入前になるかな。とにかくレズリーとハイワットを同時に鳴らした瞬間、これは面白いと思ったよ。
※『MONDO ROCK JUMBOLEE』(ESCB-3206/EPICソニー/1996年9月21日)=VIDEO rODEO、P.O.A.など6組が参加したアルバム。P.O.A.は『ケマーソン、マエク&ノリマー』、『Jagur E type』、『テレビ万歳』の3曲収録
それまでハモンドにレズリースピーカーを繋いで大きな音で弾いていたんだけど、レズリーは間接音が多いんでアンサンブルでは1歩後ろで包み込むにはふさわしいんだけど、ガチっとした骨組となる音を作ろうとすると弱い音になっちゃうんだ。オレはいろいろ研究して、ある書籍にブリティッシュロックのオルガン使いはレズリーだけじゃなく、ストレートのアンプも鳴らしていたことがわかった。例えばキース・エマーソンは、レズリー147、122を使いながら、ハイワットのカスタム100を使っていることが書いてあった。
『MONDO ROCK JUMBOLEE』のレコーディングスタジオにハイワットが置いてあったの。どうやらスタジオを利用していた人が持って帰るのが面倒になって、置いておく代わりに使いたい人には自由に使わせていたアンプだったということ。先ほどの書籍のことを思い出してハイワットも繋いでみたらドンズバの音がして興奮したよ。家に帰ってすぐにELPのレコードを聴くと同じ音だった。これならギターがいなくてもガチっとしたアンサンブルができることを確信したんだ。
こうした経験とBARAちゃん加入のタイミングが重なったからこそ、いまのキーボードスタイルが確立できたんだね。
充実した活動が訪れるもメンバー間の波乱は続く
●このあたりから私がライブ写真を撮り始めたということもあるけど、ある意味、この頃は初期と現在のP.O.A.の良さを取り入れたハイブリット状態で、バンドの歴史としても密度が濃かった時期だと思います。
たしかに活動の密度としては濃かった。その頃の1997年のライブ映像を見返したけど、これを20代の若者がやっていたと思うとチャレンジングだよね。3人の楽器がすごい攻めていながら歌がかき消されてない。あのまま続いていたら、もうちょっと違った展開があった気もするね。
●この編成で1年近く続いて、これで安泰かなと思った頃にP-KOの脱退は驚きました。
男性3人の演奏者としてエゴが高まり合い、どんどん音がデカくなって、あまり声質が太くなかったP-KOの負担は大きかったかもしれないね。だけど、それが問題というよりもBARAちゃんとの相性が合わなかったのが問題だった。BARAちゃんは、ちょっとイジメっ子な面があって、P-KOに対してかなり強めに当たっていたんだ。オレはリーダーとして、その問題を収拾することができなかったことに反省しているよ。
P-KOが辞めてしまい、何人か女性ヴォーカルをオーディションしてERINNに入ってもらったの。
●ERINNちゃん在籍時、1998年1月15日の高田馬場AREAで伝説級のライブが行われました。
そうそう、その日、都内が大雪に見舞われ、オレが本番までにライブ会場に辿り着けなかったの。だけど前日に雪予報を知ってたから前もって準備はしていたんだよ。機材車が幹線道路まで出られるように自宅から30メートルぐらい雪かきもしてたよ。だけど移動中、予想以上の雪でハンドルを取られて事故っちゃって警察の現場検証の手続きをしていたらライブに間に合わなかった。
この日は、オレが不在だから、BARAちゃんはお店から借りた安っぽいベースを弾いて、ノリちゃんがドラムを叩きながら、ヴォーカルとキーボードパートの口真似したんだよね。オレはライブが終わったタイミングで到着。申し訳なかったけど、観てみたかったな。
●交通事故といえば『Give Me カルシウム』の歌詞の中でも歌われているけど、それはどういった事故だったの?
1996年10月17日に『MONDO ROCK JUMBOLEE』のレコ発ライブが渋谷ON-AIR WESTであって、その晩に渋谷で打ち上げがあったの。オレは友だちの音響エンジニアの須藤くんと参加していて、須藤くんにオレん家で家呑みするから電車のあるうちに家に向かってもらったの。オレは1人で機材車を運転して帰る途中に事故っちゃったんだ。何も知らない須藤くんはオレん家で待ちぼうけ。
当時も厳罰だったけど、あの頃は、機材車を路駐したり、打ち上げ後に飲酒運転したり、そんなバンドマンばかりだったね。いまは、そんなことをしないし、運転免許もないよ。
●せっかく入ったERINNちゃんも早々に脱退したけど、大雪ライブで呆れられてしまったとか?
いや、これもP-KOの時と同じで、BARAちゃんのアタリの強さに心折れてしまったの…。
粟田もそうだけど、オレが一緒にやりたがるメンバーというのは、面白い人ではあるけど、破天候型? 破滅型? バンド活動を維持できなくなっちゃうぐらい偏ったクセがあるんだね。爆発力のある演奏が魅力である一方、人としてはクソ野郎(笑)。もしも粟田とBARAちゃんが一緒のステージに立っていたら面白かったかもしれないね。ぶっ飛んだ演奏を聴かせてくれるか、めちゃめちゃ喧嘩したかもね。どうしてもオレはそういう演奏者に惹かれてしまうんだ。
強烈な印象を残したメンバー
●演奏が良くても“クソ野郎”(笑)。
そうだ、もう1人忘れちゃならないクソ野郎がいたよ! BARAちゃんの前、11人編成時にベーシストだったラリー小野田。
ラリーと初めて会った時の事はよく覚えている。とにかく音がデカくて、ベースなのにトレブリー。どんな曲でもずっとスラップ、チョッパーしまくってって、音数が多く”ウルサイ”。じゃあダメかというと全く逆で、超絶巧くてご機嫌なリズムを持ったベーシストだった。
さらに喋ってもウルサイ! ステージ上でも普段でも、早口でずっと喋り続ける最高に面白い男だ。泳ぎ続けないと死ぬサメのように喋り続ける男で、内容は極めて下品。初めて見た原宿クロコダイルのLIVE中のMCでも「あいつ(女性)のパンツを口で脱がせたい」とか言ってたなあ。スゴイ奴に会ったと思った。
その後、下北沢などで何度か対バンして仲良くなって、俺のプレイもP.O.A.も気に入ってくれた。前川くんがEESで海外ツアーに頻繁に行くようになっちゃたんで、後任のベースを考えて真っ先に浮かんだのがラリーだった。誘ったら快諾。そして極めて人見知りのアータコージも何故かラリーを気に入ってすぐに打ち解けた。今思えば、プレイ内容、音楽的バックグラウンドでの共感があったんだろうな。
ラリーは最高に面白くてご機嫌なベーシストであるが、クソ野郎っぷりはバンド界隈でも有名。オレの友だちもきっと同じ評価をするだろう。例えば、会うたびに「あ!カワイケン、今度会う時には返すからさっ!財布忘れてさ、帰る電車賃がね…」と2千円、3千円をせがまれる。少額だから貸すけど、返ってきたことはない。金借りといて、「1杯だけやって帰ろう!」って、飲んじゃう。
2012年、ラリーは若くして亡くなった。彼の追悼LIVEはさながら債権者集会の様相。それでわかったことだが、ラリーに勝手に楽器を売られた奴、高額を貸して未返済の奴など、オレの被害なんて少額の方だったのね。そんなラリー追悼のために大勢が集まるのだから、とにかく、みんなから愛された男だった。
メンバーは2人、そして、1人に
●激変するバンド人事に、P.O.A.は1999年から、いまのようなキーボートとドラムの2人ステージになりました。
女性ヴォーカルの件が暗礁に乗り上げ、もう女性パートはなくてもいいし、オレ1人で歌ったらイイじゃんと腹を括ったの。『ディスコティック・ドラゴン』『愛してる』『テレビ万歳』みたいに、2人で立体的に歌う構成の曲はできなくなるけど、別のアプローチを考えるのも楽しいよ。
●正直、バンドの状況としては良好とはいえない時期でしたが、意外なチャンスが訪れますね。
P.O.A.の歴史の中で、最も世の中に出回った曲で最大のヒットが『テレビ万歳』(※)なんだ。今のP.O.A.ファンは全く知らないかもしれないけど、NHKの子ども向け番組「天才てれびくんワイド」のオープニングテーマを1年間(1999年度)P.O.A.が担当していたのだ。ひょっとすると子ども時代に番組を観て、聴き覚えのある30代半ばの人がいるかもしれないな。
この曲が作られたのはNATSUちゃん時代で、P-KO時代もライブでもよく演奏されていた曲だ。だが、番組でこの曲が選定された時は、すでにP.O.A.はノリちゃんと俺だけの二人ぼっち体制。それで急遽、P-KOとホセ・メンドーサ(内田雄一郎)くんを呼び戻し録音を敢行。昼集合だってのにP-KOが夜まで来なかったり、中々シビレるレコーディングだったが、出来は最高だった。番組制作陣にもウケた。「前のバージョン(1996年、モンドロックジャンボリー収録)よりも大迫力!」って喜ばれたよ。
※テレビ万歳(天てれ オープニングVer)=アルバム『うたの詰め合わせ 天てれ福袋』(日本コロムビア/1999年6月19日)収録
●注目は高まったけど、ライブで『テレビ万歳』ができる状況ではなかったのはもったいなかったですね。2人だけのライブ体制はスムーズにいきましたか?
オケ同期は試行錯誤したね。初めはCD-Rに入れたオケをCDウォークマンで流したの。リハーサルスタジオでは問題なかったから大丈夫だと思ったら、本番で音飛びして大変だった。お店のプレイヤーを借りても同じだし難儀したよ。
後から分かったことだけど、CDウォークマンは相当な振動があっても先にバッファーで取り込んでいるから、滅多なことで音飛びしないの。だけどライブハウスはさ、低音で継続的に振動しているから、バッファーを取り込んでも、すぐに振動が続くから取り込みが間に合わず音飛びがしちゃうの。
その後、CDよりも音飛びが少ないと言われていたDATにしたけど、すぐにノートPCに移行したよ。ノリちゃんはPCとか好きだから、いろいろアイデアを出してくれて、いまのシステムが完成したんだ。
その長年相棒だったノリちゃんも2015年に脱退してオレ1人になる。ノリちゃんは演奏力があるけど、P.O.A.では珍しくクソ野郎じゃなかった。ここまでが、現在のP.O.A.に繋がるヒストリーだね。
数々のメンバーで繋いできたP.O.A.
●最後に言いたいことはありますか。
今回、話していて気付いたけど、オレがメンバーにしようとするのは“愛すべきクソ野郎”ばかりみたいだね。オレの偏った趣味というか嗜好というか、ぶっ飛んだ面白い奴が好きだ。だからそれが出会い頭にぶつかり合った瞬間は最高に面白い。そして譲り合うバランス感覚なんて持ち合わせてない奴らだから、当然バンド活動は長く維持できない。そこはリーダーとしての俺の不徳の致すところだ。よく俺は相次ぐメンバー脱退に関し「不徳の致すところ」なんて自虐ネタのように話すが、これは冗談ではなく本当のところ。
よく「死んじゃうくらい◯◯」って言うけど、すごくぶっ飛んだ面白い奴って早死にしちゃうのだろうね。自分の健康、生命の維持すらおぼつかないバランス感覚ってことだろうか。アータコージ、ラリー、カボちゃん、ベラちゃん、SAX高木と、わかってるだけで、もう5人のメンバーが死んでる。
もしも、P.O.A.に新メンバーが加入したら、その人は、“愛すべきクソ野郎”である可能性が高いと思う。数々のメンバーで繋いできたP.O.A.は、これからも“みんなから愛されるバンド”として活動していくよ!
【P.O.A. Facebookページ】
https://www.facebook.com/poa.japan
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?