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よくわからないけど好き



「大学時代の友だちってさ、10年くらい経ってからまた仲良くなることあるっていうじゃん?」


一年と少し前、ひょんなことから大学時代の友人と約10年ぶりに繋がった。仕事の関係で私の地元に来るかもしれないという。彼女が唱えた10年後説は聞いたことがなかったけれど、メッセージの海に浮かぶその吹き出しは輝いて見えた。そしてそれが現実になればいいなと思った。



彼女とは学籍番号が連番で、性格は真反対なのになぜか居心地がよかった。大学にも高校時代の延長のようなグループ(いわゆるいつメン)がそれなりに存在していて、彼女とは別グループだった。それでもその枠がふわりと外されるとき、私たちは自然に一緒にいた。

大学を卒業してから11年目の春。
彼女が本当に私の地元にやってきた。
一年という期限を背負って。


“会いたかった人に10年以上経ってから再会”

そういうご褒美みたいなことが、私の人生で時々起きる。覚えている限りこれで3回目。どの出会いも本当に特別なもので、そのたびに、人生が続いているからこそ知る幸せがあると知る。


「会えたらいいな」と考えることは何度だってあった。でも積極的に強く願ったわけでない。願える資格がないと思っていた。人と人との結び目がほどけてしまう理由は色々で、ときに不可抗力の場合だってあった。それでも私は、理由のうちのいくつかは少なくとも自分が握っていると思っていた。だからその罪悪感が拭えなかった。


“会わなくなった理由”も“会いたくなくなった理由”も、正直なところ一つもなかった。強いて言うなら年賀状を止めてしまったことや、誕生日おめでとうのメッセージをスキップしてしまったこと、「そろそろ会わない?」を飲み込んでしまったこと等々。そういう些細なひとつひとつが積み上がって、くっついて大きくなって、対峙できなくなった。


今でこそ、何もしないで維持できる人間関係はないに等しいと思っている。けれど、過去には縁を維持するための忍耐力みたいなものが欠けていたことがある。その事実と後悔に向き合うことは苦しい。


およそ10年ぶりの再会を経て向かい合う私たち。「再会に乾杯」はさすがにダサすぎて言えなかった。胸に沈んでいた鉛のような後悔は、彼女が気持ち良さそうにビールを飲んで、泡に溶かしてくれたような気がした。


彼女は歌うように滑らかに話す。言葉を一つ投げれば九つ返してくれる。あぁ、こうだったなと思い出す。こんなにも正反対な人なのに居心地がいい。元号や年齢や私たちを取り巻く環境は色々変わったけれど、ふたりを包む空気は何も変わらない。


彼女はお酒の飲み方が学生時代のそれとは変わっていた。そのことが、空白の10年間が嘘ではないことを改めて教えてくれた。彼女のウィスキーを舐めさせてもらう。飲み慣れない液体に喉が熱かったけれど、案外悪くない心地だった。今ある結び目は解けさせたくない。この熱は、きっとそれを時々思い出させる記憶になる。




考えるほど、彼女のことを好きな理由が分からない。性格は正反対だし、共通の趣味だってない。
でも、明確な理由のない「好き」ほど強力なことを知ってもいる。


あるとき私の「好き」を分析してみたら、「よく分からないけど好き」という感情が抽出されたことがあった。これ以上の分析は、しなくていいかなと思っている。勝手にこんがらがっていて最高に厄介で、最高に愛おしい感情。こんなの手放せるわけない。



「出会いには必ず理由がある」と誰かが言っていた。私たちの再会には理由があるのだろうか。そうだったらいいなとも思う。でも、もはや理由はあってもなくてもいい。再会できたことに理由を見出していきたい気がしているから。



どんなに遅くとも、来年の3月31日までに私たちは2回目のお別れをする。お別れが予告されているのは、とても幸せなこと。終わりは時間の形を変える。連れて行きたい場所には全部は行けないかもしれない。でも、少なくとも言葉は取りこぼさずに伝えようと決意する。



この出会いはこれまでの私のためのものであり
これからの私のためのものでもある。
そんな予感がして、心の中で春風が吹いた。

「もうすでに一年後がさみしい」と言った私に、
「これからも行き来する理由ができたってこと」
と返した彼女。その強さに学ばせてもらうよ。

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