”向かいの星に住む人よ、僕の光は届いてる?“

よく晴れ渡った日のことだった。

「あ、月が見える」

歩道で肩を並べて信号機の赤色を眺めている私に、夫が言った。

通勤ラッシュの時間をやや過ぎた頃合いで、大通りには車がまばらに行き交っていた。視線の先にはファミリーレストランがある。その屋根の斜め上に、月がぽっかりと浮かんでいた。輪郭線が空の青色に薄ぼんやりと白く溶けこんでいる。

「すごいよね、日中に星が見えるなんて」

「星?」

どこかに小さな点のように光る星があるのだろうかと、私は空へ向かって目を凝らす。その傍らで、「衛星がね」と言葉を補うように続けた。それで、あぁ、月を指して星と言ったのだな、と気が付いた。

「もしもあの距離にある星に人が住んでるって分かってたら、どんな風になるのかねぇ」

と、彼が言う。

「ずっと昔から住んでるとしたらですか?」

「そう。お互いに居るっていうのは知ってる。けど、言語も違う」

月に人が住んでいるのが常識になっている世界では、どんな気持ちで月を見上げるだろう。昼も夜も目に映り、いつもそこにあるけれど、まだ行くことの出来ない国。それは海で隔たった大陸同士とも似ている。人の命の営みを乗せて、月という名の箱船が、海よりも広汎な空に浮かんでいる。

『小学校の教科書に載ってたけど、あそこには誰かが住んでるんだ』と想いを馳せ、

『空に向かって落ちられたら、月の地面に着地して、会いに行けたりできそうだ』なんて、子供の頃に芝生の上で寝転がって空想してみたり、

『自分たちと同じように、今日も生活を営んでいるんだろうか』と、月を見上げては、不思議な気持ちになるのだろう。


青色の信号機が灯り、横断歩道を歩き出しながら彼が言った。

「光をチカチカ光らせて、お互いの存在を確認し合ったりね」

星から星へ向けて、ここにいるよと光を放つ姿を想像してみる。装置を作って試みるのは老齢の科学者だろうか、それともまだ幼い、科学者の卵たちだろうか。

「お互いに向こうへ行こうとするでしょうね」

月があるだけで飛ぼうとするのだから、人が居るなら会いに行こうとするのじゃないかな、などと考えつつ、話を続ける。

「何か打ち上げて、向こうに届かせたいですね。人工衛星を幾つか経由して、電波を届かせる」

「電波で通信するにしても、向こうの文明がその領域まで発達してないといけないしなぁ」

「向こうの星にも科学者がいるでしょうし、通信機を月の地面に着地させて、向こうの星の科学者に発見して貰えれば、言語を解読したり、電波を使えるようになったりするでしょう」

でも、僻地に通信機が落ちたら、誰にも見つけて貰えずに、遺跡みたいに乾いた砂にサラサラと埋もれて朽ち果ててゆくのだろうか。想像すると、そういう切なさもひっくるめてロマンだなと思う。

彼はなんだかしみじみと言った。

「ガリレオの頃には望遠鏡で土星の輪っかが観測できたっていうから、16世紀頃には、向こうに人が居るぞっていうのが、目で見て確認できるんだけど、それからロケットが開発されるまで、3世紀ぐらい、『居るぞ』っていうのが分かってるだけなのよね。見えてるんだけど」

その世界にいるつもりになって月を見上げてみると、なんだか向こうの星の人たちに向かって、手を振りたいような心持ちになる。

幼い頃から夢見るのかもしれない。

もしかすると、向こうからも手を振っているかもしれないと。

そうして、よく晴れた夜に、家の物置から一番大きな懐中電灯を持ち出して、パジャマに上着を着込んで外へ出て、近所で一等高い場所にある広い原っぱの真ん中に佇んで、懐中電灯の光を夜空に向ける。月を照らすみたいに。


僕はここにいるよ。僕の光、届いてる?

きみの光も、見えるといいな。


向かいの星に住む人と、そんな風にして始まる物語。そういうのも、ちょっといいんじゃないかな。
青空に浮かぶ星を見上げながら、微睡むように想像してみる。

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