のんべんだらりとしている

年に何回か酒を飲む。

ビールと熱燗と麦焼酎のお湯割りを飲んだ。それから珈琲で一服して、またウイスキーを飲んだ。

その後、台所で体育座りをしながら、白湯と経口補水液を交互に飲みつつダラダラしている。

先日から、朝目が覚めると同時に片頭痛がする。多分水分不足なのだろう。それもあって時々経口補水液を飲んでいる。ここのところ体重は安定している。毎年夏に向けて暑さで体力を削られて体重が減る一方なので、蓄えておかねばならない。なので、現時点で急に目減りしないようにと気にかけている。

ここ数ヶ月はなんとなく慌ただしかった。

今月に入ってからは、方々に連絡を取ったり、親戚と久しぶりに会って挨拶を交わしたり近況を伺ったりした。

この齢になってくると、そろそろ終い支度のことも頭を過る。知人曰く、片足を棺桶に突っ込んでいるので、いつ何時何があってもおかしくはない。マスクをしているせいで、年齢よりも多少若く見えるらしく、今日も通りすがりの御婦人と話していてお若く見えるわねと言われたのだけれど、もう随分いい歳だ。

実際、私の母は今の私の年齢よりも数年若い頃に、急に具合を悪くして病院へ救急搬送されて、余命2週間の宣告を受けた。母はその後も荒波のような人生を病いとともに超えてゆくことになる。彼女の人生にはそういう、命の瀬戸際が度々起こる。

私もまた、四半世紀生きた時点では思いもよらなかった身体の不調に苛まれて三十路を過ごした。

生きていると誰しもの身の上に、色んなことが起こるものだ。

それぞれがそれぞれの苦境を超えてゆく。

その重みは、わかち合えないものもあれば、知ろうとして歩み寄ろうとする時もある。

腕を伸ばして手を握る。その、指先の温度。

ひんやりとしていて。

或いは、温かな湯たんぽのようで。

触れた刹那に、言葉のない言葉を交わす。

それはありがとうかもしれないし、また明日も会おうという願いかもしれない。

一足飛に未来へゆくことは叶わないから、一歩ずつ歩む。時には二三歩下がりつつ、時には重い足取りで深い一歩を踏み出しつつ、前へと向かう。

果てしなく続く道のりの中で、目に見えない一区切りを幾つもつけて進んでゆく。

立ち止まることも停滞することもあるけれど、その限られた枠の中でもなお進む。

何を願うんだろう。

幸福だろうか。

それは誰の幸福だろう。

一個人ではなくて、皆の幸せだろうか。

まんべんなく満ち足りて、穏やかに笑える未来。

そういう未来がある世界線を信じられるかどうかっていうのは、心の豊かさやリアリズムの分量の話な気がする。

これらはどこへ向けるでもない文字列。ただ書き連ねているだけの言葉。

それでもどこかへ届くのなら、どうか今宵はよく眠れますようにと願う。

あくびを一つして、この文章を閉じる。

おやすみなさい。

また明日。


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