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何回目かの潜水で、漸く私は息をした(メディアファスティングフォール!)

暫くだなぁ。
何から書こうかなぁ。

まずは、目の前のことから。

今、この明け方の薄暗い部屋を満たしているのは、コーヒーの匂いとTrainのDrops of Jupiterだ。

Now that she's back in the atmosphere
With drops of Jupiter in her hair, hey, hey
She acts like summer and walks like rain
Reminds me that there's a-time to change, hey, hey
Since the return of her stay on the moon
She listens like spring and she talks like June, hey, hey

まだ高校生だったかな、初めて聴いたとき。ほんと、この冒頭のVerseから恋に落ちたな。それから私の中でずっと名曲。これほど優しく美しい歌詞が書けたらといつも思う。

彼女が空気の中へと戻ってきた
木星のしずくを髪に散りばめて
夏のように振る舞い 雨のように歩く彼女が
変わるべき時があるってことを 僕に知らせる
月から戻ってきてからの彼女は
春のように耳を澄まし 六月のように話をする

勝手に和訳。
あぁ私も木星のしずくを髪に散りばめたいし、春のように耳を澄まして六月のように話したい。亡くなったお母さんを歌った詩らしい……素敵。この曲、日本じゃそこまで有名じゃないのかなぁ、グラミー取ってるんだけどな。
ちなみにTrainはSan Franciscoのバンドで、カリフォルニアの情景を歌ってる歌が多いんだけど、風景を眺めながら彼らの歌を聴くと「あぁ〜カリフォルニア的情緒好きだ〜」と身体の芯から思える。ので、ホームシックでカリフォルニアなんて海と椰子の木しかねぇ!ってなってる人におすすめだよ。


さて、

目まぐるしく過ぎてゆく日常の中で、私はたまに深く潜りたくなる。

例えば、あまりにも不確かでそれ故何故か鮮やかに見える自分の輪郭にそっと触れたくなるとき。踏み外した昨日が出来損ないの満点のように見栄を張ろうとするとき。夜に目を瞑る瞬間が取り留めのない記憶の暴走によって延々と拡張されていくとき。
あるいは、2分前に閉じたインスタグラムを無意識の親指がまた開くとき。

これは私がこの数ヶ月メディアファストをしていたことの話になる。予定。

私はたぶん、ソーシャルメディアへの耐性に著しく乏しい。
元来そんなに使いこなせてない身で言うのも恥ずかしいのだが、SNSを使ってると本当に疲れてしまう。自分に。
LINEで今話してる友達が昨日どこで何を食べたかをインスタで見ることや、Twitterの画面上で誰も求めていない誰かへの言い訳をこねくり回すことや、旅行に行けばどの写真を載せるか考えてしまうことや、本当は知らなくてもいい他者の虚栄をわざわざ覗いては嫌悪感を抱くことや・・・Too much情報、自己顕示欲過多過多・・・もちろん悪いものとは思ってないんだけど、今の自分の生活においてはこういうネガティブな影響ばかりに目がいって疲れてるな、と思ったのである。
そんなこと、ずっと思ってたのにね。
でも、やめてしまうことで逃し得ない情報やチャンスのことを思うと「あぁ続けないとな、、、」と思いだらだらと親指を動かしていた。FOMOだね完全に。特にLAに来てからは周りの人のインスタグラムの使用度が高すぎて正直焦ってもいた。エンタメ業界は特に。ちゃんと発信し続けたり、画面上でもソーシャライズしないと、仕事も誘ってもらえないしこの先生き残っていけないのかなぁ。反吐が出るなぁと(笑)

こんな調子なので、これまでもちょっと疲れると細やかなメディアファストを行ってきた。というか、頑張んなくていいやと思うと自然とスクリーンタイムが減っていくタイプなのでさして苦労はないのだが、それでも何かを逃しそうな焦りに負けてCheckしてしまったり、自分の存在が人々の画面上で更新されないこと恐れたりと、100%頭の中から消えることはなかった。
伸びやかに蹴り出したはいいものの、散漫する思考や急に訪れる恐怖の波によって途中で立ち上がってしまった潜水の練習のような。あの、プールの真ん中でバァっと水面から顔を出して吸い込む空気は痛いんだよな。振り返ってみて、あれこんなしか進んでなかったのかと情けなく思うし。

でも遂に!
数ヶ月前、思い切って日常から消し去ってみた。情報への執着や焦りを捨て、元来自分が愛するアナログな時間をもっと大切にしてあげようと
だってすごく悔しい。貴重な人生の時間を、画面を見てストレスを感じることに使うなんて。タダではないのだ。時間だけでなく、毎月お金を払って自分の精神衛生を売っている。あぁどうせ高いiphoneを持つならポジティブな効果のために使いたい。

だから、5分インスタを見るよりは5ページ本を捲ったり新しい曲を聴いたりすることを選んだ。なんなら何もせず5分ぼーっとすることを選んだ。

完全なメディアファストではない、オンラインでの人との繋がりがある以上それはちょっとできない!(失礼になったり迷惑かけたりするのは避けたい)
LINEやTextが来たら返すし、最低限のニュースは読むし、インスタだってDMやタグ付けの通知が来たときだけ対応する。Netflixで映画も観るし、ほぼほぼずっと音楽は流している。

でも、以前のようになんとなく画面をいじることがなくなっただけで、だいぶ生活が豊かに感じられるようになった。楽になった。
出かけるときもわざわざ時間をかけてメトロに乗って窓の外を眺めながら鉛筆を走らせたり、ただ椅子に座って一つのアルバムを最初から最後まで集中して聴いたり、どこかに残すためじゃなく音楽を作ったりものを書いたり。2時間かけて海辺を走ったり、冷蔵庫のありあわせではなく食べたい料理のために材料を買いに行って作ったり。そういうことに積極的にエネルギーと時間を費やした。やることに追われてても無駄を省けば案外24時間っていろんなことができるし、身体は疲れても心は疲れさせないというのは非常に生きやすい。人と直接会って過ごす時間も不思議と増えた。これ大事。

前に好きだった人のことを思い出す。
ある時期彼はiphoneを持たない生活をしていて、非常用のPHSだけを持ち歩いていた。おかげで何度か待ち合わせがうまくできなかったり、出先では私のiphone頼りなところがあったりとそれなりに不便があった。私の友達は未だに「PHSの彼」と呼ぶし。
でもなんだかあの日々、楽しかったんだよなぁ。
誰に見せつけなくてもいい二人の空間がちゃんとあって、不便さを面白がる豊かさがあって。遠くへ行ってしまえば、知り得ない相手の日々を想像し、言葉が伝わるのにかかる時間に焦らされたり救われたりしながら手紙を書いた。
それ以来よく思う、隔たれるということは近づくことでもあるんだなと。

・・・余談余談。

そんなこんなでこの秋は、バタバタとした日常の中で好きなことに無我夢中で潜ったままあっという間に過ぎていったのです。早かったな〜
それは本来の自分に戻りながら新しい自分を開拓するような心地がした。
画面上の自分の存在小さくなっていくにつれて、不確かな自分の輪郭が示唆する鮮やかさに手が届き、踏み外した昨日をまるごと笑え、取り留めのない記憶と寄り添って眠れるようになった。
過多な情報によってすり減らない自分になるまで随分かかったな。何回も失敗して。
今や、したり顔で悠々と潜る。
何回目かのトライで気がつけば身体の力は抜けていて、ぎゅっと瞑っていた目は水の中の屈折した光を捉えている。そして漸く私はゆっくりと呼吸を始める。ボコボコ、ボコボコ・・・

あぁ、久しぶりに泳ぎたい。最近寒すぎるよね!
(使った写真は1年半前に皆で潜った爆笑の青い洞窟。この冬もまた行けるの嬉しいな!)

そろそろ息継ぎをしようかなと思って、生存確認の意も含めて久しぶりに書いてみた次第。
さてさて、コーヒーはもう冷たいし窓の外は明るいし、もう浮き上がっても大丈夫な自信がついたし。

もう一度深呼吸をして・・・

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