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3.11「死者とともに生きること」ー想像せよ・耳を澄ませよ

正直に言うと、私はこれまで東日本大震災についてあまり人と話したことがありません。正しい言葉を選ぶということは、あるときにはひどく難しい。
多くの人がそうであるように、私はどんな言葉を選ぶこともできずにいたのだと思います。

しかし一定の時間が流れ、今年初めて日本の外で3.11を過ごして、死者とともに生きることについて書いてみようと思いました。
”正しい”言葉を選ぶことはまだできそうにないけれど、せめてこの8年間で感じてきたことを綴る試みは正しさとは関係のない場所でできるはずですね。うん。
震災のことについて書くわけではありません。政治的立場も示しません、論じません、調べません、いつでも手ぶらのベランダで喋ります。


【想像する勇気をもたなかった】

8年前、私は14歳で、子供ではあったけれど、それでも自分の国で何かが圧倒的に崩れていくことを感じるには充分に大人であったように思う。
しかし東北での映像やニュースはあまりに現実味を欠いていて、東京にいる安全で・傷ついていない自分は何も言ってはいけない気がした。(傷ついていないということに傷ついていたんだということを今では感じます)

そのときの自分は死者の姿を想像し、彼らの声なき声に耳を澄ませる勇気をもたなかった。
多くの人がそうしたように、また多くの人がそうしなかったように、目を閉ざし、耳を塞いでいました。


【息を吸うのが痛い】

、というものが私の中でリアルになったのは高校生になってからのような気がします。

一気にいろんな障害にぶつかりとにかく絶望しきっていた時期がありました。これまでで一番辛かったのは確かにそのときだったと今でも思う。
結局はたかが高校生一人分の絶望を高校生一人分のカバンにつめて歩いていただけなのだが、その頃は「どうしてみんな色々あっても普通の顔して学校に行って帰ってこられるんだろう」などと本気で不思議に思っていた。サボタージュに彩られた三年間だったけど、この時ばかりはサボってるふりをしながら本当は学校に行けなかったのだと思う。あれ、みんな気づいてたか〜

本当に絶望しきっていると、人間ってなんにもできないんですね。
家の床に屍のように横たわって、フローリングの上10cmの世界の中を小さなホコリが舞うのをずっと見ていた。その景色は本当によく覚えてるなあ。
ただ生きていることが辛くて、でも「死にたい」のとは少し違っていた。
なぜなら、それでも自分は恵まれているんだということを痛いくらいに知っていたから。生きていて、家族がいて、友達がいて、暮らしがある。
生きたくても生きられない人が…論と言えばそういうことになるのかもしれないが、「否が応でも自分は多大なる喪失や苦痛や諦めや忘却の上に生きているのだ」という事実が、希望や感謝に満ちた「生かされてる」ではない形で私を苦しめていた。
それは呪いのような「生かされている」であって、私は「生きている」ということから逃れられないし決して逃れてはいけないのだと感じた。
死ぬ資格さえ自分の中には見つからなかったのです。

そういうことになっているとですね、もう人間の身体は正直ですから。
呼吸をするのが痛くって痛くってたまらなくなったんですね。
変わらずに床に転がりながら、喉が、気管が、肺が、横隔膜が、息を吸うたびに痛い。
痛い痛い。学校にも行かず(行けず)ただ呼吸をしているだけの、そしてそれすら痛い自分はなんて情けないんだろう、と思いました。

それは生きている・生かされていることは、死を見つめることと同じで、同じくらい痛いんだと気づいたときでもあります。

ちなみに今、西加奈子さんの『i(アイ)』という小説のことを思い出しました。
多くの犠牲の中で自分が生かされていることの罪悪感に苦しむ女性のお話ですが、あれ、本当に力強い作品ですよね。
大丈夫、普通に生きていることを恥じているのはあなただけではないし、感じすぎているわけでもないんです。

アイは自分の手を見た。じっと見た。罪に一度も手を染めたことのない、だからといって汚れていないわけではない自分の手を。


さて、飛躍しよう。

【死者とともに生きることはできるか】

という問いについて。

できる。
と今は言いたい。
あるいは、ともに生きることしかできない、と。

生きているといろんな死と出会います。
幸い私は震災では近しい人を亡くしませんでしたが、それでも死んでいった友人たちや家族がいます。いろいろな理由で、いろいろな顔で。
また自分の知らない人であっても、世界にはそこらじゅうに死が転がっているのだということを日々感じますよね。『i』のアイのように。

実は去年の夏にも大きなお別れがあって、まだその死を現実のものとして信じることのできていない自分がいます。
昨日までは確かにそこにいたのに今日はいない、そしてこれからもいないままだという単純な事実は実に惨い、憎い、痛い。

それでも切に感じているのは、死者は死んでもなお、あるいは死によってより一層、生者とともにあり続けるのではないかということです。

死そのものに対しては、私はまだ何もわからない。死と向き合う術を知らない。
それでも死者は人でしょう、死んでも人は人でしょう、
「死んだその人」と「死そのもの」はイコールではないという単純なことは忘れてしまいがちだよなあ。
だから「死」と向き合うことはできなくても「死者」と向き合うことはできるかもしれない。
少なくとも向き合おうとし続けることは。

こういうことがある。
「死んでからの方があの人のこと考えてるかもしれない」
毎日泣いて悲しむのでも、ふとした時に思い出してしまうのでも。
「もし生きていたら、こんなに頻繁に/真剣にあの人のこと考えて暮らしていただろうか」

ならば、
「死んだことによってより存在する彼ら」がいていいんではないか。
彼らを失いながら、彼らに出会うことがあっていいんではないか。
不在によって大きくなる存在を肯定していくことで、つまり死者とともに生きることで、より豊かな生を発見していくということがあってもいいんではないか。

と今では思うのです。
(もちろん、これは死を享受することや理不尽な死に屈することであってはならない。死に意味を見出すことでもない。意味のある死・意味のある生についてへの脱線を避けますがこの考え方はすごく危険なことでもあると思います)

はい、

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

村上春樹『ノルウェイの森』からおなじみの。
別にこれに持っていきたかったわけではないんですよ。
でも本当にこれでしかないのです。深入りしません。深煎りもしません。

とにかく、我々は死者とともにしか生きることができない。

だから、息を吸うと、痛いんです。


【想像すること・耳を澄ますこと】

LAに住んでいると、いろいろな国の人と話す機会があります。
中でも絶対に忘れないのが、イラン出身とサウジアラビア出身の友人たちと話してたときのこと。ちなみに二人とも20代女性、長くアメリカにいる。

戦争の話をしていた。いかに中東では戦争が日常的であるかという話になり、サウジ出身の子は自分の家でバースデーパーティーをしてる背後で爆発音が響いている動画なんかを見せてくれた。死は日常の一部だった、と二人は言っていた。

そして人は死んでいくものだと。People die, you know. 
「でもアメリカ人ってさ、Remember9.11・Remember〇〇とかって毎年大袈裟じゃない!?いや、大事だけどさ、いつまでも悲しんでばかりでどうして前に進もうとしないの!?」Why do people keep crying!? Why can't they just move on!? 盛り上がる二人。
衝撃でした。が、私は二人を非難できません。卑怯ですか、結構です。
理不尽な死ばかりの日常をそれでも生き抜いていかなければいけない世界に育った二人がそういう風に感じてしまうことは理解します。
でも二人はテロや戦争の話をしてたんだからね?Remember 3.11?まして災害、どうすることもできませんか。毎年忘れない忘れないって平和ボケですか。滑稽ですか。

それも結構。

結局二人の会話にはついていけなくなったけどこれだけ。
忘れずに前に進むことはできませんか? Why can't we keep crying AND move on!?


そしてここで『想像ラジオ』です。いとうせいこう氏が震災後に書いた素晴らしい小説。

「亡くなった人はこの世にいない。すぐに忘れて自分の人生を生きるべきだ。まったくそうだ。いつまでもとらわれていたら生き残った人の時間も奪われてしまう。でも、本当にそれだけが正しい道だろうか。亡くなった人の声に時間をかけて耳を傾けて悲しんで悼んで、同時に少しずつ前に歩くんじゃないのか。死者と共に」


8年前、死者の姿や声を想像する勇気をもたなかった自分に言いたい。
想像せよ、耳を澄ませよ、と。
そして、死者とともに豊かな生を試みる今の自分にも言い続けたい。
想像せよ、耳を澄ませよ、と。

『ノルウェイの森』の直子のように、

「大丈夫よ、ワタナベ君、それはただの死よ。気にしないで」(中略)死なんてただの死なんだもの。

なんて思えるにはまだ到底時間がかかりそうですが、
いつか憐れむのでも、無理をするのでも、まして低俗な感傷に酔うのでもなく、
正しさや、資格や、義務なんてものからも離れた場所で、
「死」を抜きにして「死者」と向き合えたら、と思うのです。

矛盾ですか。結構です。

最後に再び、『想像ラジオ』より。

生きている僕は亡くなった君のことをしじゅう思いながら人生を送っていくし、亡くなっている君は生きている僕からの呼びかけをもとに存在して、僕を通して考える。そして一緒に未来をつくる。 

今日も耳を澄まそうと思う。


(※ちなみに今回話す中で思い浮かんだ3つの小説ですが、作品をアメリカに持ってきていないので引用はすべて自分のメモからの抜粋です。正確でない部分があれば是非訂正してください。)

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