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萬葉人とわたし

時をかける萬葉集。

(1300年の時を経て、いまこうして触れられる奇跡よ。



大河ドラマ「光る君へ」の影響で、たどり着いたは古今和歌集…ではなく「萬葉集」。
和歌に興味を持ったタイミングで深掘りできる機会を得たので、おっしゃー!キタコレ!とばかりにそのチャンスに飛びつく。しかと掴み取る。

教えてくれたのは倫理学も専門としている先生だったのだけど、とにかく話が面白くて。
どの分野にも共通して言えることだが、大好きで大好きでたまらない!が伝わってくるオタクの話はほんっっとに面白いな。楽しい。
(※先生に対する無礼をお許しください)

あまりに濃厚な時間だったので、とてもここではまとめきれないが、
印象に残ったのは萬葉人の「共に在る」という前提、考え方、価値観だ。

君がため醸みし待酒安の野にひとりや飲まむ友なしにして

巻4・五五五/大伴旅人

ここでいう「ひとり」とは、かけがえのない誰かと「ふたり」で在ることが出来ない状態を指している。

在ること、とは、共に在ること。
「ふたり」という前提。

それは自然も同様で、人間と関わることで初めて自然物は意味を持ち、
「在る」、存在する、が確定する。

采女の袖吹きかへす明日香風 都を遠みいたづらに吹く

巻1・五一/志貴皇子

高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人無しに

巻2・二三一/笠金村歌集

世間一般、●●一般がどうこうじゃなくて、
自分にとって、いま目の前に居る相手や対象物を主体的に意味づけることで有意味になるというものの見方。

物事をこんな風に捉える感性に、わたしは懐かしさのようなものがこみ上げてきたのだった。

やまとことばの「こと」とは、「言(こと)」であり「事(こと)=事柄、事実」だという。

文字の無い時代において、言葉はそのまま事柄(事実)になってしまう、ということは、
今以上に伝え方には心を配ったのだろうし、口伝として後世に残すために工夫や仕掛けもたくさん散りばめていたのだなと思うと胸も目頭も熱くなる。

あと、教えてもらった歌の中でこれまた印象に残ったというか滾ったのが、詠み人知らずのこの歌だ。

世間(よのなか)を常無きものと今ぞ知る奈良の都のうつろふ見れば

巻6・一〇四五

”荒廃した奈良の都の姿を見て、この世には常なるものなど無いと今まさに思い知った”
という歌らしいのだけど、
知識としての「知る」ではなく、体得。この身をもってという意味で「知る」が使われていて、
この歌の解説を聞いた瞬間、ぶわー!と滾ったと同時に、山寺での思い出がよみがえった。

山寺。
松尾芭蕉の俳句で有名な、山形県にある宝珠山立石寺。

閑さや岩にしみ入る蝉の声

奥の細道/松尾芭蕉

子どものころ、夏休みに父方の故郷・山形に帰省すると、よく連れて行ってもらったこの場所。
汗だくになりながら山を登り、途中で休憩をはさんだ時の事。

飲み物を飲んで一息つくと、一瞬、雑音や他者の姿が消え失せ、自分と山寺だけの空間になった。

汗だくの自分と、山寺と。
あちこちで大合唱しているはずの蝉の鳴き声が、本当に岩にしみ入って、不思議な静寂に包まれたのだ。

あまりにも松尾芭蕉の表現がぴったりで、ものすごく感動したのに、うまくそれを表現できず、周囲に伝えられないまま今に至っていたのだけど、
今回萬葉集から教えてもらったことを受けて、そうか、あの時わたしは「知る(体得)」をしたのか。と、当時抱いていたもどかしさが回収されたのだった。

まだまだ面白かったポイントや印象に残った話はたくさんあるのだけど、
「やまとことばはOS」っていうパワーワードは一生忘れないと思う。笑

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