定型発達とわたし

普通ってなんだろう。

(そんなものはどこにも無いのでしょう。

世界は自分一人で回っている訳ではない。

切っても切れないのが人間関係。
ある程度の社会性が求められる。

いまのわたしの生活は、仕事の比率が大きいため、印象に残る出来事は良くも悪くも仕事絡みが多い。

色んな人が居るのはわかっちゃいるが、理解の範疇をでっかく超える意味不明なことが続くと、
対応に疲弊し、心身ともに辛くなることもしばしばだ。

理解しようとするから辛いのだ。
なんて話もよく聞くが、
何もしないというのも違うし、程度問題だと思う。
わたしは“知る”という意味での状況理解や特性理解については努力するが、相手の心情理解まではしない。出来ないというのが正しいかも。

仕事をする以上、利益を出し、損失は最小限に抑えないと破綻する。

ある人の特性が、仕事をする上で様々な困難や関係者の混乱を招くのであれば、やはりそれは発揮する場を間違えている。

あちらも辛いだろうがこちらも辛い。
なんだこのツラみのドミノ倒しは。

辛ぇよーもうヤダよー何もかもぶん投げてぇ人間辞めてぇなどと、イヤイヤ病を発動し自分の殻に引きこもっていたら、
好きな作家さんが発達障害のお話を書いていたので、引きこもってる間ずっと熟読していた。

これは、わたしのことだろうか。(n回目)

というか、発達障害については当てはまらない人など存在するのか?と思っているため、
読めば読むほど定型発達と呼ばれる側にばかり疑問が湧く。

検査していないのでわからないけど、わたしもこだわり行動や困っているクセや特性を挙げたらキリがない。

自分や周囲の人たちの特性含めて、辛さの緩和及び解決の糸口を見つけようと手に取った本だったが、己の特性とがっつり向き合うこととなった。

少しはましになる。その工夫。
他者と生きていくための生存戦略。
何事も創意工夫だ。

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