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【要約】宮台真司の『ミッドナイト・ゴスペル』評

 面白い記事を見つけたのでその要約、というかメモ書き。
 ここでは『ミッドナイト・ゴスペル』視聴にあたって必要になる現代のアメリカ、ひいてはあらゆる先進国の社会背景を知るために、前半部分を注力的に要約してみた。

アメリカは落ち目の国である

・国民はトランプのどこに惹かれたのか?

「失われた自分たち」を「誰それのせいだ」と帰属処理する営みに惹かれた
 ⇒失われたのは白人中心の社会
 例1)アウトソーシングで自動車労働者の失業率が上がったという嘘
   ⇒「海外の工場で生産させるからだ!」
 例2)元自動車労働者を中心にオピオイド中毒が10年前くらいから蔓延
   ⇒排外主義、反中国、反メキシコ、人種主義を処方箋として提供

・「失われたアメリカ」

 保守派にとっての「失われたアメリカ」とは「白人の国」。
 一方、リベラルにも「アメリカとはこういうもの」という幻想がある。
 ⇒特にインターネットの普及した現代では「見たいものしか見ない」がために、彼らの想像するアメリカはますます相容れないものになる

・分断するアメリカ

 白人至上主義者「僕らは、自分らのこの考え方の人だけで集まって気持ちよく暮らしたいだけで、そこにさえ居なければ、わざわざ出掛けていってどうこうしようとは思わないんだ」
 やがてはテックで「ゲートがないゲーテッドコミュニティ」を作り、自分たちだけの「古き良きアメリカ」をいくらでもエンジョイできるようになる。

・席がなくなればリベラルも結局は「白人男性」優先

1964年:活動家のローザ・パークスが黒人が座ってはいけないバスの座席に座る
1971年:ジョン・ロールズ『正義論』、「白人男性キリスト教徒とそれ以外」という線を引いてはいけないという「普遍的リベラリズム」を打ち出す

 ところが80年代、日本に製造業グローバル化で敗北し、1993年にとうとうマイケル・サンデルの意見を飲んだロールズが「普遍的リベラリズム」を撤回。生活形式が違う者たちの間では立場の可換性は非現実的だということを認めた。「それぞれの場所に、それぞれの良きもの・イヤなものがあろうから、それを互いに尊重して、侵害し合わないでおこう」

・リベラリズムの敗北

 互いに侵害し合わないという考えはリバタリアニズムであるが、アメリカは過去にリバタリアニズムの自治の限界を見ており、そこから弱者を支える「再配分」のリベラリズムが生まれた、という経緯がある。
 だから「リベラリズムじゃもたないから自治に戻る」なんてあり得ない
 ⇒サンデルのコミュニタリアリズムは、実は「不可能性の思考」「絶望の思考」である

 ⇒アメリカってもうダメじゃない? だからバーチャルな世界、たとえば『どうぶつの森』みたいな場所で「古き良きアメリカ」を楽しんでもらうしかないんじゃないか

『ミッドナイト・ゴスペル』の魅力

・『ミッドナイト・ゴスペル』とは

 ダンカン・トラッセルというコメディアンがゲストを招いてしゃべっているPodcastに後からサイケデリックなアニメをくっつけた作品。主人公クランシーの住む小さな家が1個あって、そこにシュミレーターが1個あって、クランシーは好きな場所(星)に行ける。

・「60年代のサイケデリック」と「今のサイケデリック」の違い

過去:「感覚の拡張」「社会への閉ざされからの解放」といったイデオロギー
現在:「生きづらさからの自由になるためのツール」といった個人的なもの

・テックとサイケデリックによる統治

 LSD文化の流れを汲んだ東海岸的コンピューター産業(Apple的なガレージコンピューター)も、同じく個人的なものへシフトしていった。
 ピーター・ティールやイーロン・マスクのようなIT技術者の多くがトランプを支持する新反動主義者ないし加速主義者。金持ちが嫌がるし社会的コストもかかる「再配分」で人々を幸せにする代わりに、「仮想現実・拡張現実&ドラッグ」で人々を幸せにしようと考える。
 ⇒「ドラッグは良いものだ」という観念から「統治に利用しよう」という視点へ

・「アメリカ人はみんな仲間」じゃなく、ただのアカの他人

 「仮想現実・拡張現実&ドラッグ」で国民を生かさず殺さずの状態にしておき、金は再配分しない。ビル・ゲイツは財団を立ち上げ世界中の困っている子供たちを助けるが、アメリカの自堕落な者たちには財産を分けない。
 同じく主人公クランシーも仮想世界であらゆる星に飛んで行っていろんな体験をする。
 ⇒ゾーニングされた多様性、「見たくないものは見なくていい」という感覚が「みんなで一緒に」の倫理を失わせてしまう

・「倫理」は見つかったけれど

 『ミッドナイト・ゴスペル』は、単なる暇つぶし感覚で星をまわっていたクランシーが「倫理」に気付く物語。
 けれども現代はまだまだ「倫理」を見失っている世界であり、それはクラフトワークがグルーヴ感を欠いたフラットな16分音符の並びだけの『アウトバーン』を出した1975年、世間がカウンターカルチャーを失い始めたころからずっと続いている世界でもある。
 最終話でクランシーは警官に捕まってしまうが、そこにアメリカの行き詰まり感、「もはや何も取り戻せない」「もはや何を言っても無駄だ」という感覚が象徴されている。

 以上が要約になる。『ミッドナイト・ゴスペル』の内容に踏み込んだ批評は省いているので、記事を参照してもらいたい。
 最後に一言、『ミッドナイト・ゴスペル』大好き人間からすれば、この記事を読むことで「ああ、そんなことだったのか」となってしまう感が否めない。そもそも僕はこのアニメの哲学的な部分が好きだった。このアニメを面白く見るには、ただ彼ら(ダンカンとインタビュイー)の会話の内容にじっと耳を傾けるようにして聞くのが一番いいと僕は思う。

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