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愛とは自分のもっていないものを与えることである

 フランスの精神分析家であるジャック・ラカンについては、せいぜいスラヴォイ・ジジェクによる入門書を一冊読み通したことがあって、当の本人による著作には全く手をつけたことのない筆者だが、ラカンの有名な愛の定義についてちょっと触れてみたい。

「愛とは自分のもっていないものを与えることである」

 たぶん、この定義は愛されるものへ、愛されることの心構えについて忠告している言葉なんだと思う。
 人はそれぞれ独自の幻想や理想を抱いて生きている。そしてきっとそれは現実には即していないものだ。
 その幻想が他者に投影されるとき、幻想を抱くものは色眼鏡を通して対象を見るようになる。対象には本来備わっていないもの、もっていないものが勝手に付与されるのである。
 そして、愛されるものは「本当の自分」を見られていないことに気がつき、それこそほとんど暴力的な存在として相手を意識するようになる。

(ちなみに、セックスとは肉体にそれ以上の何も幻想し得ないことからよっぽど現実的と言うことができる。愛とは幻想の過剰な冒険だ。ジジェクが映画『アイズ・ワイド・シャット』を例に出して書いたように、ファックは幻想からの逃避手段なのである)

 これと似たようなことがある。サルトルが「地獄とは他人である(l'enfer, c'est les autres)」と苦々しく言ったように、「他者が自分について持っているイメージ」は常に「自分が自分について持っているイメージ」よりも優位に立ってしまうので、自分の実存は永遠に他有化される。

 ラカンが言いたいのは、人は誰でも自分の持っていない(と自分では思っている)ものを他者に幻想されるのだから、そういった欠如を与えなきゃいけないんだ、そういうこと覚悟しておけよ、ということだ。
 他者は永遠に得体の知れないものかも知れないけど、自分は常に「他者が自分について持っているイメージ」として見られているということを理解しなければならない。
 ところで、人は愛されるとき(もしくは愛されるか軽蔑されるかの一方が選ばれるとき)、愛されるから幻想されるのか、それとも幻想されるから愛されるのか、鶏が先か卵が先か、いったいどっちなんだろうか。

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