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セカイ系の心理状態とそのルーツ

 セカイ系の諸作品が、意識的・無意識的にであれ、なんらかの理由によって世界が救われてほしい――もしくはこうも言える、終わってほしい――という願いを発想の発端とした物語であるならば、主人公かそれに敵対するものの歪んだ、あるいはいたって正常な心理的状態を分析することが、ジャンルへのより一層の理解に繋がるのかもしれない。
 そしてそれは、セカイ系の代表的作品、『イリヤの空、UFOの夏』や『ほしのこえ』、『最終兵器彼女』には現れないものである。少なく表層的には。世界救済願望、もしくは世界破壊願望、それらは意識下に沈んでいる。そうなると分析のしようがない。

 明確な信念をもって世界を救うか滅ぼそうとする作品を簡単に挙げてみると、『新世紀エヴァンゲリオン』の人類補完計画、『素晴らしき日々〜不連続存在〜』の終ノ空、『SSSS.GRIDMAN』の新条アカネ、『ハーモニー』のミァハなどがあるだろう。
 また、主人公の鬱屈した精神が世界の崩壊と密接に結びついている作品もある。岩井俊二の『PiCNiC』やリチャード・ケリーの『ドニー・ダーコ』など。

 こういった願望を抱く登場人物は多くが病的な精神状態を呈しており、また驚くべきことに自殺願望すら抱いている者が少なくない。自殺すること=世界の破滅と同義なわけだから、セカイ系とは親和性が高いと言える。
 このような心理状態と世界の命運が直接結びつく物語のルーツを探ってみよう。フィリップ・K・ディックの『ミスター・コンピューターが木から落ちた日』(1977)では、主人公のジョー・コンテンプタブルが自殺願望を抱いており、彼を気にかけているミスター・コンピューターを狂わせてしまう。ミスター・コンピューターは世界を支配するシステムであり、狂ったコンピューターは交差点を操作して車を一箇所に集め事故を起こしたり、勝手に空港を野球場に改造したりしている。コンテンプタブルに生きたいという願望を植え付け、コンピューターを正気に戻さないと世界はいよいよめちゃくちゃになってしまう。ということで世界の命運とコンテンプタブルが密接に結びつくのだ。
 この作品で注目してみたいのは次の二点、①コンテンプタブルは母親のような存在であるミズ・シンプスンに救われなければならない点、②コンテンプタブルが自分のことを何の取り柄もない人間だと言っている点。

 ①コンテンプタブルの母に関する言及がある。

「あなたは、だれも自分のことを気にかけてくれない、と思っているの、ジョー?」
「ぼくの母親はそういいました」

 こんな風に言われていることからでも、彼の救済に母親的存在が必要になりそうなことは容易に推測できる。その役割をシンプスンが担っている。
 同時に彼女はミスター・コンピューターの暴走を止めるべく厳重に地下深くに保護された「世界を救う少女」でもある。セカイ系でいうところの戦闘美少女に似ているし、エヴァンゲリオンやガンダムにおけるマザコン的なイメージもある。

 ②コンテンプタブルは自分の生活についてこう述べる。

「ぼくは結婚もしてない。妻もいない。なにもない。レコード屋のくそいまいましい仕事があるだけだ。くそいまいましいドイツ歌曲と、バブルガム・ロックの歌詞。そいつが夜も昼もたえまなく頭の中で鳴っている。ゲーテとハイネとニール・ダイヤモンドがいっしょくたに」顔を上げた彼は、激怒のあまり、挑みかかるようにいった。「なのに、なぜ生きつづけなきゃならない? そんなものが生活といえるか? それはただの生存だ。生活じゃない」

 こういったキャラクターは、村上春樹の『かえるくん、東京を救う』の片桐、「ただ寝て起きて飯を食って糞をしているだけの、何のために生きているのかわからない人間」に、あるいはその中でかえるくんが好きだと話したドストエフスキー『白夜』の語り手である孤独で夢想的な青年にも繋がってくる。
 自意識過剰で悲観的、アダルトチルドレンっぽくもあり、もはや平坦な戦場(岡崎京子)、終わりなき日常(宮台真司)でしかないこの世界で「きっと何者にもなれないお前たち」を指す、メタ・セカイ系的テーマにもなっている。

 日本のアニメ・サブカルチャーがロボットアニメを起源としているように、同じくアメリカSFがそのルーツになっている可能性は十分ある。正直なところ50・60年代のSFは現代のラノベに近しいところがたくさんあると僕は考えている。

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