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猫のいる殺人 第1話

あらすじ

 アパートの一室で若い女性が殺された。事件に挑むのは、捜査一課の新人刑事・明城あけしろ芽依めい。バディの大越おおこし研吾けんご刑事とともに、半密室の殺人事件解決のため、奔走する。
 保護猫カフェ、猫ボランティア、謎の男に第二の事件。猫を中心とした不可思議な事件の黒幕とその意図とは。
 黒猫の金の瞳だけが、すべてを見ていた。

本編

第1話

 その人物は肩で息をしていた。針のような静寂が身を包む。
 何故こんなことに。
 手もとに持ったものは、部屋のLED照明に反射して、ぬらぬらと光るものがべったりとつく。
 どうすれば。
 どうすれば……!
 にゃあ、という鳴き声が後ろから聞こえた。影は思わず振り向く。
 黒い毛皮がぬらぬらと光る。そして、闇夜に浮かぶ月のような金眼がふたつ、その人物をじいと見ていた。
 息が荒くなる。
 混乱の中、始まりの鐘が鳴った。

 *

「ごめんね、立石たていしくん。こんな遅い時間に」
「いいんですよ。まだ就業時間ですし、もともと昨日僕が急に行けなくなっちゃったのが悪いので」
「でも、モコちゃんの急な通院でしょ? 仕方ないじゃない。まあ、昨日は南井さん、お留守だったから。ちょうど良かったのかしら」
「タイミングってありますよね」
 二十代前半の男性と三十代後半の女性が、並んで歩く。時刻は十九時半の少し前だ。冬の冷たい風が吹くと、女性は手袋を着けた手を揉み合わせて、ふくよかな体を震わせた。
「昨日、様子を見に行くって言ったのにお留守なんて。今日はいてくれればいいんだけど」
 女性が口の中で呟くように愚痴ると、立石と呼ばれた男性がなだめるように言った。
「急用だったんですよね。お詫びの電話もあったのでしょう?」
 奇妙な組み合わせのふたりは、小さなアパートの前にたどり着いた。オートロックがないタイプのアパートだ。集合ポストが並ぶ小さな空間を抜け、エレベーターに乗って三階のボタンを押す。
 冷え冷えとした照明の下、外廊下を並んで歩き、303と書かれたドアを確認する。
 立石がインターホンを押した。ピンポーン、と軽い音がする。返事はない。
「やだ、またお留守かしら」
「お仕事から戻られていないのでしょうか」
 女性が不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。立石は困った様子だ。
「どうしようかしら。明日、私だけでもう一度遅い時間に来ても……あら」
 とげとげとした口調が急に変わり、立石は女性の方を見る。
永濱ながはまさん? どうしました?」
 永濱と呼ばれた女性は、ドアの横、少し離れたところにある磨りガラスの窓を指す。
「ねえ、奥の方、電気ついてない?」
「あ、本当ですねえ」
 立石も窓を覗き込む。途端に永濱は不機嫌に戻った。
「居留守ってこと? 何か後ろ暗いことでも……」
「いやいや、永濱さん。もし中で倒れていたりしたら大変ですよ。南井みないさん、一人暮らしなんですから」
「そんなこと言っても……」
「あ!」
 立石がドアに手をかけると、抵抗なく薄く開いた。
「え!」
 永濱は、立石の手元を見、長身の立石の顔を見上げる。その目は驚きに見開かれていた。
「やっぱりおかしいですよ、これ!」
 立石がさらに扉を開こうとする。
 ガツッと音がした。
「ロック……?」
 U字のロックが、立石の行動を阻んでいた。
 立石はわずかな隙間から中を覗く。息を呑む音が聞こえた。
「永濱さん!」
 永濱も慌てて細い隙間から部屋の中を見た。
 茶色の長い髪が床に散らばり、赤黒い染みが床に広がっていた。
 永濱は、ヒュウっと息を呑む。その音はしんとした冬空の下で妙に響いた。

 *

 帰宅ラッシュの国道で、たくさんの車に混ざり、一台の乗用車が滑るように走っていく。
 ハンドルを握る華奢な手首に力がこもっているのを見て、助手席に座る大越おおこし研吾けんご警部補は大袈裟にため息をついた。
「おい、事故るなよ」
「ちょっと! やめてくださいよ!」
 反論の声は高い。その声にも緊張の色を感じて、大越はもう一度深くため息をついた。
「……仕方ないじゃないですか。捜査一課に来て初めての臨場なんですよ、私!」
 運転席から、後追いの言い訳が飛ぶ。
 大越は無言でちらりと運転席を見た。
 強張った面持ちで、若い女性が必死に前を睨みつけていた。頭の高い位置で結んだ長い黒髪の毛先にまで緊張が及んでいるように見える。
 明城あけしろ芽依めい巡査部長、二十九歳。捜査一課の新人刑事だ。
 なんで俺がこんなお嬢ちゃんのお守りなんか。
 大越は声に出さず、もはや何度目かわからない自問をした。大越は、五十歳近くになるベテランの刑事だ。親子でもおかしくないほどに歳が離れた相棒の存在を嘆く。
「浮かれるなよ、人が死んでるんだ」
「わかってますよ! 私だって警官ですし! でも、憧れの捜査一課ですよ!? 大越さんだって配属されたときはこんな感じだったでしょう!?」
 口だけはよく回る芽依に呆れて、大越は軽く頭を振った。
「まったく、こんなお嬢ちゃんが捜査一課とは、一課も落ちたものだ」
「あ! 酷い! パワハラですよ!」
 大越はしまった、と思う。口に出ていたか。
 むっつりと黙って、芽依の抗議をやりすごす。
「……ま、そこはやっぱ縁故ってやつですよね! 大越さんもご存知だとは思いますが」
 馬鹿に明るい調子で芽依が言う。大越の口から特大のため息が漏れ出した。
 本人の言う通り、芽依は縁故によって若くして本庁捜査一課に配属になった。
「明城さんも、本当に甘いんだよ……」
 大越はひとりごちる。
 明城芽依は、刑事部長、明城誠志郎せいしろうの姪にあたる。
 明城刑事部長は子宝に恵まれず、弟のひとり娘で、しかも自分の背中を追って警察官となったこの姪っ子が、娘のように可愛くて仕方がないらしい。捜査一課への配属を熱望していた芽依を所轄から本庁にあっさり引き上げたのだ。
 明城刑事部長は、大越が捜査一課に配属されたばかりの頃に捜査一課長をしており、大越も大層世話になっている。明城刑事部長から見ても、大越は信頼の置ける間柄であり、ありがたくないことに今回、可愛い姪っ子のコンビ、ならぬ御目付役を拝命したわけだった。
「私、目的のためなら使えるものは何でも使いますので」
 芽依の口角が挑戦的に上がる。
「事件対応の本丸、捜査一課! ミステリーで憧れた名探偵のような私の活躍がこれから始まりますよ!」
「だから、浮かれるな、って言ったろ。名探偵になりたいなら刑事じゃなくて探偵やれ」
 芽依は口を尖らせる。コロコロと変わる表情を見て、そんなにも顔に出るタイプが捜査一課でやっていけるのかと、大越は不安を深めた。
「だって、実際の探偵は事件捜査なんかしないじゃないですか。浮気調査とか、迷子のペット捜索とか。それらが重要じゃないとは思いませんけど、私がやりたいことではないんですぅ。謎に満ちた凶悪事件! やはりこれに一番近いのは警視庁捜査一課!」
「そんなミステリー小説やドラマみたいな現場はほとんどねえよ」
「明城芽依の〝メイ〟は名探偵の〝メイ〟!」
「おい、聞けよ。というか、片手運転するんじゃねえ」
 車内で拳を上げる芽依に氷柱のように冷たい大越の言葉が突き刺さる。芽依は左手をハンドルに戻した。
「とにかく、この明城芽依、気合い入れていきますので!」
「わかったから……」
 大越は会話を諦めた。

 芽依と大越を乗せた車は、細い住宅街を抜ける。遠くに赤いランプの明滅が見える。芽依は車をパーキングに停めた。
「本当に普通の住宅街ですね……」
「とにかく、行くぞ」
 いつもなら家族の団欒で溢れる静かな住宅街であろう一画が、非日常の空気に包まれていた。近隣の住人たちが何事かと現場近くに野次馬に来ている。
「ちょ、通して……通してください!」
 騒ぐ芽依と、無言の大越。ふたりは野次馬の塊を抜け、警察手帳を提示して、規制線の中に入った。
「おい、明城。暴走するなよ。俺が話聞くから、お前はメモしろ」
「……はぁい」
「なんだ、今の間は」
「いえ、なんでも」
 素知らぬ顔で芽依は歩いていく。大越も、着古したトレンチコートを羽織り直すと、芽依の後を追った。
 現場はアパートの三階だった。エレベーターもあったが、ふたりは階段を登っていく。途中、狭い廊下で鑑識や所轄の刑事とすれ違う。
 死体が見つかったというのは、303号室だった。狭い玄関を抜け、中に入る。小さな部屋の中は、職員たちでごった返していた。
 芽依は部屋の隅に白い三段ケージを見つける。そのさらに隅に黒い毛玉が小さく丸まっていた。
「お疲れ様です」
 現場にいた所轄の刑事に、大越が話しかける。
「あ、お疲れ様です。ええと、本庁の?」
「捜査一課の大越です。こっちは……」
「同じく、〝捜査一課〟の! 明城です!」
「おい」
 捜査一課をやたらと強調する芽依を大越が諫める。
「すみません、世間知らずで」
「あ、いえいえ。自分は谷川北たにがわきた署の波多野はたのと申します」
 まだ二十代のように見える、童顔の男性の刑事が誠実そうに応えた。
「こちらが被害者ですか」
「ええ……。まだお若いのに、可哀想に」
 茶髪の女性が床に倒れていた。鑑識職員が様々な角度から熱心に写真を撮っている。
 波多野刑事が説明をしながら、南井の社員証を見せる。
「ガイシャは、南井亜矢音あやね、二十六歳。都内の製菓会社で営業職をしている会社員です」
「一流企業だな。でも、その割には住居が質素だ」
「オートロックもないし、危ないですよね。まだ若いから、お給料がそんなにでもなかったのかな」
 芽依は手袋をした手で写真を撫でた。

 大越と芽依は床に広がった血痕を踏まないように遺体のそばにしゃがみ込み、手を合わせる。
「死因は……これは打撲痕か?」
「そうですね。このトロフィーというか、盾というか……こちらが凶器である可能性が高いようです」
 大越の疑問に対し、波多野刑事が示す。ガラス製と思われる何かの記念品らしきトロフィーが床にきちんと立っていた。直方体の金属の台座に、丸くて厚いガラスが嵌っており、そこに文字が刻まれている。大きなものではないが、重さがありそうに見えた。
「血痕がないですね」
 大越が尋ねる。波多野はスラスラと答えた。
「指紋が残っていなかったそうです。鑑識の見立てでは、血痕も指紋と一緒に拭かれたのだろうと。ルミノール反応は出たそうなのでほぼ間違いないですが、あとは、傷の形状の確認待ちですね」
「なるほどな。だから床に放り捨てられずにきちんと置かれているのか」
 大越は頷きながら立ち上がる。芽依は凶器と目されるトロフィーを覗き込んだ。床につかないように、ポニーテールにした長い髪を手で受け止める。
「〝営業部 新人賞〟。会社の記念品でしょうか。優秀な方だったんですね」
「第一発見者は」
 波多野刑事は外を指す。
「外にお見えです。問題は、発見時の状況でして……」
「どういうことですか」
 大越の目線が一層厳しくなる。
「……第一発見者が現場を見つけたとき、鍵はかかっていなかったそうですが、U字のドアロックがかかっていたそうです。自分が到着したときも、その状態でした」
「え?」
 芽依がきらりと目を輝かせて波多野を振り返る。
「それって、部屋は密室だった、ということですか?」
「おい、明城……」
 大越画呆れつつ、芽依を制しようとする。
 芽依はそんな大越を無視し、波多野刑事に詰め寄る。
「鍵はかかっていなかったけれど、U字ロックがかかっていた! 不完全ではありますが、密室ですよね!? そうですよね!?」
「え、ええ、そういうことになりますが、あの」
「すみません、うちのモンが」
 芽依の勢いに波多野刑事は困り果てた。大越が芽依のコートとジャケットの首後ろ部分を一緒に掴み、波多野刑事から芽依を引っぺがす。
「わっ!」
「暴走すんな、浮かれんなっつったろ。いい加減にしろ」
「ちょっと大越さん! 転んだらどうするんですか、危ないなぁ」
 芽依が体勢を立て直すのを見ると、大越は手を離した。
「お前が悪いんだろうが」
「ぬう、すみませんでした。波多野さんも、失礼しました」
 芽依は素直に謝る。
「でも、密室であることには変わらないんですよね。U字ロックって、外すのは紐や糸で外からでも簡単にできますが」
 波多野刑事は頷く。
「はい、実際、自分たちも紐を使ってロックを外して中に入りました」
「外から、かけるなんてできるんでしょうか」
 大越は鼻を鳴らした。
「名探偵を目指している割には勉強不足だな。紐とテープでロックを閉めることもできるんだよ。つまり、密室でもなんでもない」
「え! そうなんですか」
 驚く芽依を置いて、大越はスタスタと玄関に向かって歩いていく。その翻るコートの裾を芽依と波多野刑事が追い掛ける。
「このU字の底の部分にテープを貼るやり方だな」
「それなんですが」
 口を、挟んだのは波多野刑事だった。
「鑑識もその方法を疑い、その部分は入念に調べたようですが、テープの痕跡が見つからないようです。テープの質によってはそういうこともあるかもしれないので、何とも言えないのですが」
「そうなのか……」
 大越の眉間の皺が深くなる。芽依はU字ロックを睨んでいた。
「……なんか、この真ん中の辺りにテープの跡、ありませんか」
 大越が見ると、U字ロックを畳んだ状態の側面に、何かが縦断したような跡が残っている。
「これは?」
「はい、そちらはテープの跡のようです。ドアにも痕跡が残っていたので、普段はこのU字ロックはテープでドアに固定されていたようですね」
「U字ロックがドアに固定されていた……?」
 大越がゆっくりと復唱する。芽依が大越に訊く。
「大越さんがおっしゃっていた、外からロックを閉める方法とは違う位置なんですよね」
「ああ、そうだな……。普段はロックは使われていなかったということだ。しかもご丁寧に何故かテープで留められていた」
「壊れていたんでしょうか。勝手に閉まっちゃうとか?」
 波多野刑事が頭を掻く。
「それは自分たちも疑って、何度もドアを開閉してみたり、しばらく閉めたまま放置してみたりしたのですが、何も起こらなくて」
「壊れてはいなかったのかなぁ」
「ここの一階には大家が住んでいます。あとで確認してみましょう。今は先に、第一発見者の方々のお話を。寒い外にお引き止めしているので」
 大越がU字ロックから目線を上げた。
「方々?複数なのですか」
「はい、二名です」

 そのふたりは、廊下の突き当りで、刑事に囲まれて立っていた。
「だから、さっきから何度同じ話をさせられればいいんですか! こんな寒空の下で!」
 中年の女性が、手袋をした手でカイロを揉みながら叫んだ。
「まあまあ、永濱さん。刑事さんたちもお仕事なんですよ」
 若い男性が、女性の肩を叩く。波多野刑事が割って入った。
「すみません、本当に申し訳ないのですが、もう一度お話聞かせてもらえますか」
「また!? あれ、あなた、さっきの刑事さんじゃないの! あなたにはお話ししたでしょう!?」
 中年の女性のキンキンとした声が、冬の空気のせいで一層金属質に感じられる。芽依は耳を塞ぎたくなった。
 波多野刑事が恐縮して答える。
「本当にすみません。自分ではなく、こちらのおふたりに……。本庁の捜査一課の方々です」
「捜査一課の大越です」
「同じく、明城です」
 芽依は落ち着いて言った。大越は芽依のほうを横目で見て、小さく息をつく。
「申し訳ないのですが、我々にも……」
「あーはい! わかりました!」
 女性の声が自棄になったように、大越の申し出を遮った。男性が困ったように言う。
「あの、本当に最後にしてもらえませんか。いい加減、寒さが限界で」
「すみません、承知しました」
 大越が頭を下げた。男性は頷くと、話し出す。芽依はメモとペンを取り出した。指がかじかんで、書きづらい。
「僕は立石と言います。保護猫カフェで働いています。こちらは永濱さん。保護猫ボランティアをしています。亡くなられた南井さんは、僕の勤務先の猫カフェ〝香箱の宿〟の常連です」
 大越が質問をし、立石が答える。永濱は不機嫌そうに明後日の方向を見ていた。
「おふたりは今日は何をしに?」
「南井さんは一ヶ月前、僕の勤め先から保護猫を引き取ったんです。猫のトライアル……つまり、うまく飼っていけるかのお試し期間中でした。今日はその状況確認と、譲渡の決定をするかを決める場でした。直近の南井さんの休日は予定が合わず、平日の今日……本当は昨日だったんですけど、お留守で、今日になりました」
「留守? 昨日も訪問されたんですか?」
「あ、昨日は僕は伺っていません。僕も急用で。永濱さんだけです。永濱さんに留守のお詫びのお電話があったそうで、改めて今日の訪問になりました」
「ええと、永濱さん? あなたは被害者とどのような関係で」
 永濱は腕を組みながら渋々答える。
「……南井さんが引き取った猫、クロスケを保護したのは私なの。〝香箱の宿〟はあくまで仲介で、南井さんは私の所属する保護猫ボランティア団体〝キャッツシールド〟から譲渡される形になるので、私が来ました」
「立石さんが昨日来られなかったご事情は?」
「モコ……あ、うちの猫カフェにいる猫なんですけど、急に膀胱炎になってしまったようで、他に人手が足りず僕が急遽病院に連れて行くことになって……」
「はあ、なるほど」
 大越はピンと来ていないが、そのまま続ける。
「それで、おふたりが遺体を見つけたのは何時頃ですか」
「今日の……十九時半くらいだったと思います。その時間がお会いするお約束だったので」
「遺体を見つけたときの状況なんですが、U字ロックがかかっていたとか?」
「あ、はい! インターホンを押したんですけど反応がなくて帰ろうとしたら、永濱さんが部屋の灯りがついていることに気づいて。試しにドアを開けたら、鍵がかかっていませんでした。でもU字ロックがかかっていて、なんか変だと思ったら、ドアの隙間から頭から血を流している南井さんらしき人が倒れていて、警察に通報しました」
 立石はスラスラとわかりやすい説明をする。もう何度も同じことを他の刑事たちに聞かれて話し慣れたのだろう、と大越は思った。
「あのぉ……」
 小さな声を上げたのは芽依だった。
「明城」
「すみません、大越さん。ひとつだけ確認させてください。猫の譲渡とおっしゃいましたが、もしかして、部屋の中のケージにいたのは……」
「ああ、その子がトライアル中だったクロスケですよ。二歳くらいのオスの黒猫」
 永濱が答えた。
「ケージに入っていましたが」
「アンタたちが大挙して押し寄せているのにそのままにしたら、あの子が外に出ちゃうじゃないの! 私が捕まえてケージに入れたの」
「明城。なんなんだ、猫のことなんて」
 大越の指摘に芽依は軽く頭を下げた。
「すみません、さっきからあのケージが気になっていたもので……」
 大越は咳払いをした。
「とにかく、おふたりは被害者の南井さんと部屋で会う約束をしていて、訪問したらU字ロックがかかった状態で南井さんが亡くなっていたと」
「そうです」
 立石が頷いた。
 永濱が盛大なくしゃみをした。

 立石と永濱に礼を言い、連絡先を交換してから帰したあと、芽依と大越と波多野刑事は再び303号室に戻ってきた。
 ちょうど遺体が運び出されるタイミングで、担架が細い廊下を通っていった。
「そういえば」
 大越が思い出したように言う。
「死亡推定時刻はいつなんですか?」
 波多野刑事は手帳を取り出す。
「あ、すみません。報告が漏れており……ええと、昨日の十八時から二十二時辺りとのことです」
「それってもしかして、永濱さんが訪問したタイミングですか?」
 芽依が言うと、大越は顔を歪ませてくしゃりと自分の髪を掴んだ。
「しまった。昨日の訪問時間を聞きそびれたな。しかし、昨日も平日だし、今日と同じくらいだと考えると俄然あの永濱という女が怪しくなってくる」
「でも、密室の謎も解けていませんよ。どうやって永濱さんはこの部屋を密室にしたんですか。それに、動機も不明です」
 矢継ぎ早に指摘を入れる芽依を、大越は睨む。
「それを解いてくれよ、名探偵どの」
「名探偵?」
 波多野刑事が首を傾げる。
「いや! 気にしないでください!」
 芽依が即座に反応した。
「なんだ、俺のときと随分違うじゃねえか」
「なんか、改めて訊かれると恥ずかしいじゃないですか!」
「じゃないですか、と言われても、俺が知るかよ」
「あの……」
 大越と芽依のやり取りを遮ったのは、聞き覚えのない男性の小さな声だった。
 声がする方を見ると、玄関扉から老年の男性がこちらを覗いている。
「あの、私、ここの大家で一階に住んでいる~山岡《やまおか》と申しますが」
「大家さんでしたか」
 三人は揃って扉のほうに歩いていく。
「この騒ぎ、いつまで続きますかね? そちらもお仕事だとは思うんですが、もう夜も遅いですし、他の入居者さんにもご迷惑なんで……」
「すみません。今日はもうすぐ撤収になるとは思いますが、しばらくの間は、警察関係者が出入りすると思います」
 大越が答えると、山岡は深いため息をついた。
「まったく、何てことに。この部屋も事故物件になってしまうし、どうしたものか……」
「大家さんにひとつ伺いたいことがあるのですが」
 大越がU字ロックを指す。
「この、南井さんの部屋のU字ロックなんですけれど、壊れていたとか、そういう話は聞きませんでしたか」
 山岡はぽかんとする。
「は? U字ロックですか? ……いえ、聞いたこともないですね。南井さんとは、よくごみ捨てなどでお会いすることもありましたが、そんな話は全く」
「そうですか、ありがとうございます」
 大越がお辞儀をすると、山岡は再び深いため息をついてから、去っていった。
「結局、U字ロックは謎ですね。密室としても半端だし」
 芽依はメモを書き加えながら言う。そして、部屋の中に戻り、残された血痕を一瞥したあと、ケージに寄った。
 ケージの黒い塊がのそりと動き、金色の目が覗く。
「君だけが目撃者かぁ。一体どうやってご主人は殺されてしまったんだい?」
 芽依の問いかけに、黒猫が小さく鳴いた。

 間もなく、大越と芽依も撤収することになった。二人は、明日から谷川北署に帳場が立つことを知らされた。

続き

第2話

第3話

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