第3話 甘露の夢 ─ 志島明香里の場合 薄暗がりの夢喰い堂。定位置に座ったゲテが、艱苦の燈會に目を向ける。 まだ小さな炎が消えそうになりながら揺らめいている。 「おや、黎。火種だよ」 「また久しぶりの餌だな。まったく、その燈會の条件は厳しすぎないかい」 黎はカウンターの上に座り、グルグルと文句を言う。 「そんなこと、私に言われてもなぁ。時間があくのは良いとして、今回こそ甘露の夢の返し先を引き当ててくれないかな」 「どのくらい経った」 くるりくるりと顔を洗いながら、黎
第2話 憤怒と恥辱の記憶 ─ 橘颯太の場合 わあ、きゃあという声で、俺は目を覚ます。薄いカーテンから日が透けている。もう昼過ぎのようだ。 むくりと体を起こし伸びをすることもなく、猫背の体を引きずりながら二階の自室の窓から外を見る。中学生のグループがはしゃぎながら通っていく。 俺はカーテンを再度引き、強く握りしめる。嫌な記憶が蘇った。顔を片手で覆う。伸びた髭に手が当たった。 ──お隣の橘さんちの颯太くん、学校に行けなくてひきこもりなんですって。 そう言われていたのも
第1話 終焉と救済の記憶 ─ 佐々木苺の場合 課長のデスクの前に立ち、身を固くする。 「お前さ、その癖、どれだけ経ったら治るわけ?」 四十を過ぎて頭髪に翳りが見える男性が、ぎしりとオフィスチェアを鳴らし、頭の後ろで手を組む。湯本課長、私の上司にあたる。 「あがり症か何か知らないが、また古賀の同行でフリーズしたんだって? 先方から問い合わせがあったよ。バックオフィスでも企画でも、予想外の質問が来るとフリーズ。冷凍イチゴちゃんが瞬間冷凍されない仕事はどれ?」 盛大なため息
あらすじ 過去の傷に苦しむ人の前に突如として現れる奇妙な〝夢喰い堂〟。 獏のゲテと火車の黎は、淡々と獲物を待つ。艱苦の燈會に導かれた人間は、その世界へと迷い込む。 恐怖を感じると体が固まる会社員。引きこもりの青年。雨に怯える大学生。 様々な傷を抱えた人々が、夢喰い堂に囚われる。 苦しみの記憶を喰われるか、それとも残すか。 そして、記憶を喰うゲテの目的とは。 現実ではない世界で現実と向き合い葛藤する人々と、呪いを受けた妖怪たちの物語。 艱苦の燈會が今日も輝く。
第4話 翌々日の朝、十二月十三日。 〝その人物〟は、谷川北署の取調室に呼ばれていた。表向きの要件は任意の裏取り聴取だった。 芽依は、〝その人物〟の前に座り、大越は横に仁王立ちした。 「今日はお時間をいただき、ありがとうございます。裏取りの結果、南井さんのお宅の玄関に、植村将義の下足痕が残っていたことが見つかり、南井さん殺害は植村の犯行ということで、確定となりそうです。 植村は、既婚者であることを黙って南井さんと付き合っていたようですが、それがバレて口論に発展し、突発
第3話 十二月十日。その日の朝も、芽依は一番乗りをして、捜査会議の準備を手伝った。 捜査会議では、通信記録の取得がまだ遅れていること、永濱が七日の二十時半頃に〝キャッツシールド〟の拠点に戻ってきていたことの裏取りが、ICカードの記録によってできたことなどが報告された。 それに加えて、大越が、南井に最近できたという〝彼氏〟がいたことと、永濱が〝キャッツシールド〟に戻った時間帯に、〝ウエムラマサヨシ〟という男性が猫の見学に来ていて、証人となる可能性があることを報告した。
第2話 事件発生から二日後となる翌朝、誰よりも早く芽依は帳場に来ていた。 捜査本部となる予定の会議室を職員から聞き出し、手持ち無沙汰にウロウロとする。昨日は頭が冴えてあまり休めなかった。 会議室の扉がガチャリと音を立てて開く。 「え!?」 「あ、おはようございます!」 驚く谷川北署員に、芽依は爽やかに挨拶した。 「すみません、もう人が来ているとは思わず」 「いえいえ、私が早く来ちゃっただけなので! よろしければ雑用でもなんでもお手伝いしますよ」 「いや、でも本庁の刑
あらすじ アパートの一室で若い女性が殺された。事件に挑むのは、捜査一課の新人刑事・明城芽依。バディの大越研吾刑事とともに、半密室の殺人事件解決のため、奔走する。 保護猫カフェ、猫ボランティア、謎の男に第二の事件。猫を中心とした不可思議な事件の黒幕とその意図とは。 黒猫の金の瞳だけが、すべてを見ていた。 本編第1話 その人物は肩で息をしていた。針のような静寂が身を包む。 何故こんなことに。 手もとに持ったものは、部屋のLED照明に反射して、ぬらぬらと光るものがべっ
第10話 水島と飲んだ翌日、白川孝頼はモヤモヤとした気持ちで通勤電車に揺られていた。 昨夜、白川は水島から呼び出された。奢ってくれたのには感謝しているが、水島は、何やら自己完結したかのような雰囲気だった。水島にとって、昨日の飲み会がどういうものだったのかは、わからない。 白川は、芙美子のことも考えないといけなかった。 芙美子が白川のことをどう思っているか以前に、白川は、自分の気持ちも疑い出した。昨日の事件で落胆して、白川は心を見失った。 (本当に俺は、伊東さんのこと
第9話 芙美子が泣き止むまで、あやめと侑大は静かに見守っていた。芙美子が明日、白川と話すということで、今日はそのままお開きとなった。 侑大が帰ろうとするとき、芙美子に声をかけた。 「芙美子、ちょっと付き合ってくれないか?」 「ん? いいけど、あやめ……」 「あー、行って来い」 あやめはカップを洗いながら言う。侑大はあやめに、芙美子への想いが知られていることを察する。心拍が急激に上がっていった。 侑大はランニングシューズを履き、小柄な芙美子がそのあとをスニーカーを履き
第8話 翌日、白川は気を重くしながら出社する。 あのあと、誰からもメッセージは来なかった。視聴者の微妙な反応に、白川に対してどう接していいのかわからないのかもしれないが、それは白川も同じだった。 文字だけでうまく話せる自信がない。近々、またあのマンションにお邪魔することになるかもしれない。 そう思いながら席につくと、困惑した様子で小山が声をかけてきた。 「おはようございます、白川さん」 「ん? おはよう。何かあった?」 「あの、俺の同期入社の人から教えてもらったんで
第7話 昨日、芙美子と白川は、午後も調整と演奏を繰り返した。 あやめの告白が白川の頭の中でぐるぐると周り、あまり集中できなかった。恨み節のひとつでも言いたくなったが、言えるはずもない。 悩んでいても、時間は進む。今日は、二つ隣の市まで行く。白川も変装をするが、例のストリートピアノのある施設では、先日小山に遭遇したばかりだ。あのピアノで弾く勇気はなかった。 白川は変装グッズを小さめのキャリーケースに詰める。近くのトイレで変装する予定だ。芙美子は出かけるときからあの格好
第6話 芙美子が、甘い特徴的な声で手を振る。 「あ、白川さん、こっちこっち!」 ここはあのストリートピアノのある駅ビルだ。今日はここで、白川の配信者バージョンの変装を買う予定になっている。入り口のところで待ち合わせをした。 このショッピングは、白川があやめの勢いに押された形だが、白川だけでは変装などどうしたら良いか、困ってしまっていたと思うので、結果、良かったのかもしれない。 芙美子は、ふうみぃのロリィタスタイルでもオフィスカジュアルでもなく、家でのラフスタイルに一
第5話 「白川さん、おはようございます」 小山に声をかけられる。 「おはよう……あれ? 日焼けした?」 心なしか、こんがりした小山を見て白川が訊く。 「あ、はい! お盆休み旅行に行っていて。あとでお土産配りますね」 「サンキュー」 「白川さんはどこかに行かれましたか?」 しまった、と思った。こういう話題になるだろうことを予測できていなかった。バイオリンを弾いてました、なんて言えるわけがない。誤魔化すしかなかった。 「実家に顔を出したかな。妹が結婚することになったから、
第4話 土曜日になり、白川は胸を高鳴らせながら楽器店に向かう。 「いらっしゃいませ」 店員が丁寧に出迎えてくれた。先週、楽器を預けた店員だ。預り証を出しながら言った。 「先週、バイオリンのメンテナンスをお願いした者なのですが……」 「白川様ですね。少々お待ち下さい」 肩が強張る。どんどん鼓動が速くなる。奥から、見慣れたソフトケースが大切そうに取り出されてきた。 「こちらでございます。仕上がりのご確認をお願いします」 白川は恐る恐る、ケースを開け、掛け布を取る。ピカピ
第3話 土曜日までは忙しい日が続き、帰りが遅くなった。白川は、押し入れから楽器を出せていなかった。もどかしく思いながらも、楽器を見るのが怖かった。忙しさは半分、言い訳だった。 そして、休日がやってきた。 白川にとって、土曜日の朝はゴロゴロするに限る。九時半も過ぎた頃、白川はようやく活動を始める。食パンにピーナッツバターを塗って齧り、夏でもブラックのホットコーヒーを飲む。インスタントだが、白川はこれで十分満足していた。 外はいい天気だ。今日も暑くなりそうだなと思いなが