直凪
長めの詩と、物語と、ポエムの延長線上にあるエッセイと。
自作の小説です。 最近はほぼ毎日、500〜2000字くらいの掌編を書いています。
本シリーズは直凪の内側にある世界の骨子を記録したもの、あるいは直凪教の経典です。 あなたの知っている現実世界に即していないのならこれはきっとフィクションです。あまり真に受けないでください。 なお、全ての記述は暫定的なものであり、随時加筆修正する可能性があります。 地球によく似たどこか遠い星の記録としてお楽しみいただければ幸いです。
この世界にうまく馴染めない私たちに向けて書きました。約2万字、うっすらSFです。
少年たちの締まったしなやかな肢体を見て湧き上がるのは憧れだ。僕にも少年時代が欲しかった。少女時代ではなく。 胸に無駄な肉の塊ができて、骨盤がバキボキと音を立てて育った。 骨が薄くて皮下脂肪が柔らかい身体が一概に嫌いなわけではない。人間の身体は男性より女性のほうが美しくできていると個人的には思っている。客観的に見て女性の身体は嫌いではない、だが自分が女性の身体でいることはまた別の話だ。綺麗なドレスを着たい花嫁と、綺麗なドレスを花嫁に着せたい花婿が別人であるように。
傷ついたときに傷ついていないふりをしなくていいし、怒っているときに怒っていないふりをしなくていいという、人によっては考えるまでもないこと。 今からでも身につけていきたいと思う。 傷ついたとき、あからさまに傷ついた顔をしたら、それは相手を責めているのと変わらない。相手が僕を傷つけたという事実を当人に知らしめ、罪悪感を抱かせる。相手を罪人に仕立て上げることになる。 だから僕は傷ついたことを相手になるべく気取られないようにしていた。そうして相手を罪から守っていた。幼い
ある日突然不眠症になってから、微妙に嫌な夢をよく見る。 集合時間に間に合わないとか、台詞もストーリーも知らないまま演劇の舞台に立たされるとか。母親に向かって叫んで怒りをぶつけていたりとか。 たぶん過去に嫌だったこととか無意識下で恐れていることとかを夢で発散しているのだと思う。そんなにストレスを感じているのだろうか。よくわからない。 他の人はもっと大変なはずなのだからもっと頑張らなければと思う傾向が僕にはある。 中学生のとき、長距離走が苦手だったが、ぼくよりず
離婚条件交渉中の夫から可愛いスタンプが送られてくる時のこの楽しいような悲しいような切ないような腹立たしいような乱れた情緒をどうしたらいい…? 可愛いんだが??
朝起きて、「アップルパイが食べたい」と思った。 前日にアップルパイの情報を目にしたわけでも夢に出てきたわけでもない。それは天啓のようなものだった。直凪よ、アップルパイを食べよ、と。 それはともかくとりあえず犬の散歩に行き、朝食の米を食べる。最近のお気に入りふりかけは「しそわかめ」だ。しっとりとして、上品な風味がある。しかも体に良いものを食べている気分になれる。 しばしだらだらしてからリュックを背負って外に出た。冬晴れの川沿いで枯れたススキが首を振る。十分ほど歩い
胸が膨らんでいても、子宮に続く穴があっても、毎月のように血を流しても。この体は「男の体」なのだ。 常識で考えるなら女の体なのだろうけれど。体の性を決めるのは、意外とそんなに簡単じゃない。 性器の形とか。 顔の造りとか。 背の高さとか。 毛の生え方とか。 筋肉や脂肪の付き方とか。 そういうもので僕らは何となく人の性別を判定している。 基準はあくまで平均に基づくもので、例外なんていくらでもある。 胸がほとんど膨らまない女性もいれば、乳腺が発達
しっかり文章を組み立てる元気もなく、ペンを握るのも億劫なので、ジャーナリングアプリを始めてみました。 あとぬいぐるみを使ったセルフカウンセリングも試してみたり。 https://youtu.be/WLX4TZx5kc0?si=EL12vLsxxMHu3VBF そこそこ病んでる自覚を持って、健全なメンタルを目指します。
このところ全然文章を書いていませんが、何をしているかというと休暇を取って手芸に励んでいます。頭も体も休養中です。
Treadsに平和な手芸アカウントを開設しました。 ぬいぐるみ作りの進捗などちょくちょく更新していくと思います。まぁ気まぐれなのでいつまで続くかわかりませんが。 よければ見てやってください。
ぬいぐるみを抱いて眠るようになってから、頻繁に悪夢を見る。ただ不快なだけの夢ではなく、抑え込んでいた感情に気付かせるような、示唆的な悪夢を。 どうしても嫌なことをやらされそうになって、必死の訴えも聞いてもらえなくて、どうしてわかってくれないのと泣きながら追っ手から逃げ回ったりとか。 パニック症のことを母親に打ち明けたら心無い言葉をかけられ、怒りと悲しみを爆発させたりとか。 心の痛みと共に目覚め、ぬいぐるみを胸に抱き直す。子供のままの小さな自分に語りかけるように、
今の自分に必要なのは安心感… ということで祖父母の家に長年置いてあったくまさんを洗いました。今日から一緒に寝ます。
記事のストックが切れたのでしばらくお休み。 今年の秋の深まりは、急な坂を下っているようです。
漫画でもアニメでもゲームでも、死によってしか救われないような不憫なキャラクターが好きだ。最終的に「殺してくれ……」とか言い出すような。どう足掻いても報われないタイプの。 そんな自分の性質を恥じた。自分も含め現実の人間にはもっと救いがなければならない。救いのない人生を好む悪趣味、人の不幸を喜ぶ下劣。 でも本当にそうだろうかと疑い始める。みんなが幸せであるほうが良い、努力は報われたほが良いけれども、それは即ち死にしか希望を見出せない人生の否定になるだろうか。 お年寄
宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』、そのアニメ映画版を何となく観た。登場人物が二足歩行の猫のやつ。 飢饉に追われるようにして街に出たブドリは言った。 「どんな仕事でもいいんです」 続けて、 「とにかく、本当に役に立つ仕事がしたいんです」 全然どんな仕事でもよくない。人(猫)を食い物にするような詐欺まがいの仕事だったら、飢えていたってきっとブドリはやらない。役に立つ仕事でなければしたくない。本当に役に立つことなら何だってする。 仕事というのはそういうものか
落ち着いてるねと言われることが結構あった。他人からそう認識されているということは自分は落ち着いた人間なのかなと漠然と思っていた。 心の中を覗いてみれば不安と葛藤が渦巻いて波立っていることも多いのだが、比較対象となる他人の心を覗くことはできないから、自分の波が平均よりも高いのか低いのかわからない。これが落ち着いているということならば、他の人はもっと激しい嵐の中にいつもいるのだろう。もっと大変な思いで日々を生きているのだろう。 にも関わらず他の人たちは周りと上手くやって
テレビドラマの中の世界では、現実世界にいるような姿形をした人たちが、現実と同じく肉体と不可分に紐付いた声で、現実の人々に似せた話し方をしている。そうしたリアリティの持つ鈍器のような硬さに耐えられない時がある。 日常系のほのぼのしたドラマを見つけ、これなら心穏やかに観られるだろうと思っていた。大きな波乱もなく物語は進んでいたのだが、最終回付近で一度だけ、主人公が声を荒げるシーンがあった。時間にしてほんの数秒。身体が強張った。 コメディタッチの柔らかい作品ですら安心して