歴史を漫画する ~わかりやすいがゆえに~
「ムロタニツネ象さん」という鬼才がいました。
1934年~2021年。
「学習まんが」シリーズなどで活躍した方です。
学校で学習する内容を漫画にして
わかりやすくする手法がありますよね。
私が「歴史学習漫画」と言われて
すぐに脳裏に思い浮かべるのは、
「ムロタニツネ象さん」作画のものです。
学校の図書館などで目にされた方も
いらっしゃるのではないでしょうか?
特に「天下の統一」「江戸幕府ひらく」の
二冊が、強烈に印象に残っている。
応仁の乱(北条早雲)から
島原・天草一揆までの歴史は、
この二冊を読めば
おおまかな流れが頭に入っていきます。
何というか、クセになるんですよ。
ムロタニツネ象さんの漫画は。
デフォルメ、強調と省略と目力がすごい!
学習漫画だけではなく、
ホラー漫画の分野でも活躍されていた方です。
手塚治虫さんもライバル視していたとか…。
しかし「わかりやすい」がゆえに
歴史を扱った漫画には欠点もあります。
それは、あまりにもわかりやすいがゆえに
イメージが固定されてしまう危険性が高いこと。
本記事では、この問題について書きます。
漫画は、取捨選択と強調の表現方法ですよね。
「コマ」で場面が切り分けられている。
線で場面がトリミングされている。
キャラも(もちろん写実的な画風の
漫画家さんはいますが)現実とは異なり、
かなりデフォルメされています。
この強調・省略・目力が凄いがゆえに、
脳内でイメージが固定されてしまいがち。
当然です。
描き手は、いかに読者の印象に残るかを
考えながら描いているのですから。
また、本来は複雑な背景があるはずの
歴史のできごとを、
限られた紙面で描いている制約がある。
良い意味でも悪い意味でも
省略して描かなければいけない…。
これが、歴史を扱う漫画、いや、
すべての漫画に共通する宿命なのです。
…もちろん紙面、つまり分量を増やせば、
細かい背景やエピソードまで
描写することができます。
例えば、宮下英樹さんの『センゴク』では
これまでの戦国時代の常識を覆すような
歴史の再考察がなされています。
また、みなもと太郎さんの『風雲児たち』は
幕末のことを描くつもりが
描いているうちに江戸時代のボリュームが
当初より多くなり、膨大な量の
歴史大河ロマン作品になってしまった経緯がある。
(編集部の意に反してでも描き続けた)
調べれば調べるほど、面白い。
それが歴史の奥深さです。
どこまで描くのか?
取捨選択、演出をどこまですべきか?
…実際の歴史を題材に採っている漫画は、
特にこの問題と格闘せざるを得ない。
ムロタニツネ象さんの歴史学習漫画は、
読者層に小学生を想定しているため
コンパクトにまとめなければならない
という制約が強かった、と想像できます。
あまりに長いと、飽きられますから。
その一方、あまりに省略してまとめ過ぎると、
いわゆる「教科書の内容の絵解き」となる。
全く面白くない。読者の印象に残らない。
ジレンマですよね。
その点、ムロタニツネ象さんの
コマ割りと演出は神がかっています。
印象に残るコマが、多いのです。
…ただ、繰り返しになりますが、
これが欠点になりがち。
すなわち「印象に残るがゆえに、
イメージが固定されてしまう」危険性が高い。
例を挙げましょう。
『江戸幕府ひらく』の巻の最後は、
江戸幕府の三代将軍の徳川家光が
「鎖国」をした、というコマで終わります。
「家光じるしの徳川鎖国カンヅメ」が
日本の上に乗っている。
とても印象的なコマ。私もいまだに覚えている。
…ところが、現在の歴史研究においては
いわゆる厳密な「鎖国政策」は
行われていなかったのでは、とも言われている。
「鎖国」という言葉が使われ出したのは、
「鎖国完成」から150年以上も後の
享和元(1801)年以降。
元オランダ通詞(通訳)志筑忠雄が、
ドイツ人医師ケンペルの著書『日本誌』を和訳、
その中の一つの章を「鎖国論」と
名づけたのが鎖国という言葉が
使われ始めた契機だった、とのことです。
すなわち、徳川家光自身が「鎖国だ!」と
言い出したわけではないのです。
なのに、ムロタニツネ象さんが描く
徳川鎖国カンヅメのコマ「だけ」を見て
記憶に残した小学生は、
徳川家光が「鎖国」をしようと言い出し、
「カンヅメガチガチの状態になった」と
誤解、錯覚してもおかしくない。
歴史の学習漫画の「利点と欠点」を
以下にまとめてみます。
では、欠点をどう克服すれば良いのか?
以下に三つほど挙げてみます。
まずは、読み手が
「こまめなアップデート」を意識すべき。
歴史の研究は現在進行中であって、
過去の「常識」が覆されることもある、と
常に意識しておくことです。
次に、読み手が
「省略と強調」という漫画の宿命を意識すべき。
漫画は事実そのままなのだと錯覚しない。
描き手の主観や演出が意識的あるいは
無意識的に入った物語なのだ、と意識する。
最後に、読み手が
複数の作者の見解に積極的に触れるべき。
歴史への視点は、一つではありません。
切り口や解釈は無限。
それを自覚し、様々な観点から
複数の作品や見解に触れていくことです。
一見、中立的な作品や情報であっても、
必ず描き手(書き手)や編集サイドの
主観と取捨選択が含まれているものです。
「真実はいつもひとつ!」ではない。
特に歴史は、誤解されやすいものです。
「解釈はいつも無限!」なのです。
もちろん中には「ただの妄想だろ!」と
ツッコミを入れたい解釈もあります。
それを無批判に受け入れるのか、
ツッコミを入れながら読むのかは、
すべて読み手、読者にかかっている。
最後に、まとめます。
本記事では「歴史を漫画する」ことの
利点と欠点、その対策法について
考えて書いてみました。
歴史というものは物語であるがゆえに、
『短縮』され『単純化』されている…。
こう説いた堺屋太一さんの
『歴史からの発想』の文章から引用して、
本記事の締めにしましょう。
(ここから引用)
(引用終わり)
…読者の皆様自身は、自分の歴史、
これまでのキャリアを表現する時は、
どうしていますか?
取捨選択して、強調して書いていませんか?
他の人の歴史、キャリア、
SNS上の発信を読む時はいかがでしょうか。
取捨選択・強調されている、とは思いませんか?
表現されていることがその人のすべてなのだと
錯覚していませんか?
※本記事は以前に書いた記事のリライトです↓
『歴史を漫画する ~その利点と欠点と対策法~』
※私なりに省略と強調して書いた
1600年からの世界史の記事もぜひ↓
『50年ごとの世界史 ~近世から現代~』
※物語の演出方法を「ドラえもんのアニメ化」を
事例にして書いた記事はこちら↓
『物語ることの取捨選択と演出
~『ドラえもん』アニメ化を事例に~』
合わせてどうぞ!
よろしければサポートいただけますと、とても嬉しいです。クリエイター活動のために使わせていただきます!