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『frame』フレームとは「枠」の意味です。

しかし日本語ではカタカナ表記で
「フレーム」と表現することが多い。
というのも「枠」に留まらない意味を
表現することも多いからです。

…読者の皆様は、フレーム、と聞いて
何を思い浮かべるでしょうか?

「フレームワーク、と言いますよね!」
「リフレーミングもフレームだ」
「眼鏡のフレーム?」

◆framework:枠組み・構造
◆reframing:別の枠組みから見ること
◆眼鏡のframe:レンズをはめる枠

いずれにしても、何らかの「枠」があり、
そこから「あてはめたり」
その「枠組みに基づいて考えたり」する、
という意味があります。

物理的な「枠」のみならず、
心理的な「枠」をも表す言葉!
それがframeです。

本記事ではこのframeについて
考えていきたいと思います。

さて、まずは語源から。

英語には「from」という前置詞があります。
『I am from Japan.』(私は日本から来ました)
のように、「~から」という言葉。
このfromが、frameの由来。

fromからfram「前進する」という言葉が生じる。
ここからframian「利益を得る」という言葉も。
何かを得るために前進する!というイメージ。

さらにこの言葉に、
「準備をする」という意味がくっつく。
利益を得るために準備をする、となると、
『計画』が必要ですからね。

ここから「建築用の木材を準備する」
という動詞的な意味や
「計画に従って構成された構造物」
という意味が生まれたりしています。

◆「~から」
◆利益を得るために前進
◆利益を得るには計画が必要
◆計画され構成されたもの

そのように、時代を経て意味が多重に
くっついて生まれたのがframe。

では、現在の英語の辞書から、
frameにどんな意味があるのかを
列挙してみましょう。

≪名詞≫
◆(建物・船・車・機械などの)骨組み、構造
◆(社会・政治などの)機構
◆(理論などの)構成、枠組み(framework)
◆(人・動物の)体格、骨格
◆(眼鏡や窓などの)枠、額縁

≪動詞≫
◆(建物などを)組み立てる、造る、建設する
◆(計画・規則・話などを)工夫・立案する
◆(物が)枠にはめられる、囲まれる
◆(言葉などを)発する、声に出す、書き表す
◆(人を)わなにかける

最後に、ちょっと物騒な意味が出てきました。
「わなにかける」。

これは、自分のフレーム、枠組みの中に
相手を押し込む、コントロールする、という
イメージから生じた意味でしょう。
日本語で言えば「罠にハメる」。

ちなみに、frameの関連語としては
次のような言葉も。

◆furniture:家具
◆furnish:(家具などを)備え付ける

生活に必要なものを準備する、という
意味から生まれてきたようです。

さて、ここまで語源を書いてきましたが、
ここからはそれらの意味から派生させて、
frame、フレームについて私見を書きます。

私の体験の話で恐縮ですが、
私は「塾講師」の経験があります。

塾の授業というのは、
学校の授業時間より、時間が少ない。

限られた時間で「効率よく」
知識を生徒を身につけてもらう必要がある。
『フレーム』を提示する必要があるのです。

つまり、枝葉末節な知識だけを
詳細に教えていては間に合わない。
箇条書きで列挙してもダメです。
「こう考えればいいんだよ!」という
「知識の枠組み」「考える枠組み」を
提示する必要がある。

いわゆる『効率的なまとめ』ですね!

…ただそのうち、私は
疑問を抱くようになります。

これは教科にもよります。
例えば数学の「重要な定理」や
理科の「試験に出る実験の方法」などは
『効率的なまとめ』でもいい。

しかし社会科の歴史の
『試験に出てくる江戸時代の出来事』などを
ある一定の「枠組み」に「まとめ」て
教えるだけでいいのか?と。

「試験に出る」という基準から
取捨選択することは、塾講師の立場からは
有益なものだと思います。
「どこを『覚えたら』いいかわからない」
そんな知識の海に溺れている人に、
「ここを『覚えたら』いいよ!」と
指し示すのは有効ですから。

…しかし、それが行き過ぎた場合
「その枠組み『だけ』を『覚えれば』いい」
すなわち、固定的な認識しか
伝えられないのではないのか…と。

あるframeをまず伝えるのは重要。
frameに沿って人は物事を考えますから。
しかし同時に、そのframeを疑って、
reframingすることも大事…。

特に、歴史、については。

しかし塾講師にはそこまでは求められません。
あくまで「成績を上げる」「受験を突破する」
そのための行動が求められる。
私は、ジレンマに悩みます。

「わかりやすいまとめ」をする。
「こう考えればいいよ?」と板書する。
生徒は喜ぶ。しかし、
「わかりやすい」授業をすればするほど、
固定的な「枠組み」に陥ってしまう…?
わかりにくい難題、答えのない命題まで
たどりつかない。

私は、仕事を辞め、大学院に行きました。
「歴史を考える枠組み」そのものや、
「固定的な歴史の考え方とは何か」
「歴史の考え方のreframing」こそを
考えてみたかったからです。

「…あなたの経験、キャリアは
何となくわかりましたけれども、それと、
frameの話はどう結びつくのですか?」

私が言いたいのは、こうです。

『frameをつくるのと同時に、
frameを壊したり、
複数のframeを使いこなすことも大事』

つまり、思考の枠組みを
「(自分で)組み立てる、造る、建設する」
『フレームリテラシー』ともいうべき力が
必要ではないか、ということです。

備え付けられた家具のように、
誰かが常にframeを与えてくれる、と
思い込み過ぎるのは危険。
それこそ「罠にハメられる」かもしれない。

もちろんこれは、何でもありのままがいい
「frame撲滅論」ではありません。
人は誰でも、何らかのframeに基づいて
ものを見て考える。それは避けられない。
(子ども、受験生、青年、大人などの
段階によっても異なるとは思いますが)。

ですが、眼鏡のフレームの存在を
ふだんは意識しないように、
frameはしばしば「見えなくなります」。

そう、なかなか成績が上がらないと
嘆く受験生のように…。
そんな時に、とても有用なframeを
提示されたら、飛びついてしまう。
全部つながる、つながる、と錯覚する…。
その心情は、とてもよくわかります。

しかし、frameはあくまでツール。
何らかの利益を上げるための「手段」。
それにいつまでも無批判にしがみつき、
「目的」にすり替わるのは本末転倒なのです。

最後にまとめます。

本記事ではframeについて考えてみました。

読者の皆様はどう思われますか?
あなたのframeはどんなものですか?
いつの間にか、それを
あてはめ過ぎてはいませんか?

※日本語の「枠」についてはこちら↓

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