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1560年、桶狭間(おけはざま)の戦い!
織田信長が、大軍勢の今川義元に対して
決死の奇襲を仕掛けて大勝利!

…何度もドラマになっていますよね。
勝つ見込みが無いと言われた戦いを
「うつけ」と呼ばれた信長が
打ち破ったジャイアントキリング!
何ともドラマチック…!

この戦いに勝った信長は
東の今川家との戦いを家康に任せて、
北の美濃との戦いに専念します。
後に「岐阜」を手に入れる。
天下布武の足掛かりを築いていくのです。

…しかしこの超有名な桶狭間の戦いに対して、
同じ1560年に近江(今の滋賀県)で行われた
ジャイアントキリング的な戦いは
あまり知名度がありません。
というか、私もよく知りませんでした。

人呼んで「野良田の戦い」

…のらだ、と読みます。
おけはざま、に比べて
何とも土の匂いがする名前。

「へえ、そんな戦いがあったんですねえ。
でも、織田信長が来る前のことですし、
地方で大名同士が戦った、ただの
局地戦、夏の甲子園の県予選のような
戦いに過ぎないんじゃないですか?」

そう思われるのも無理はない。
しかしながら実は、この野良田の戦い、
その後の日本史を左右するような
けっこう重要な戦いだったんです。

本記事は「近江の桶狭間」
その時歴史が動いた、とも言うべき
『野良田の戦い』について書きます。

戦国時代のはじめ、応仁の乱の頃、
琵琶湖を持つ近江国では
北は「京極氏」、南は「六角氏」が
せめぎあっていました。

京極氏は室町幕府の重鎮だった
佐々木道誉(京極高氏)の流れ。
六角氏は鎌倉幕府の重鎮だった、
佐々木信綱の流れ。武家の名門。
…元を正せばどちらも佐々木氏なのですが、
色々なしがらみから、相争っていた。

この近江に、新勢力が現れます。

浅井氏ですね。
近年の研究では「あさい」ではなくて、
「あざい」と読む。

これはもと京極氏の譜代の家臣で、
小谷城を拠点とした豪族、
いわゆる国人に過ぎません。
そんなには強くなかった。
しかしこの家に、
浅井亮政(あざいすけまさ)という
英雄が登場する。1491~1542年。

彼は主家である京極氏の
お家騒動に乗じて、
主家である京極家中の実権を握っていく。
いわゆる「下剋上」ですね!
北近江を勢力下に収めていき、
南近江の六角氏と対峙するんです。

…しかしですね、ポッと出の浅井氏に
主家の京極氏も負けてはいなかった。

この亮政が1542年に死去したのを見て、
後継者の嫡男である久政と争うんです。
久政と対立していた亮政の婿養子を取り込み、
成り上がりの浅井氏を倒そうと試みる。

ここで久政、敵の敵は味方、とばかりに
南近江の六角氏に臣従しちゃうんですよ。

「久政殿は、英雄であった亮政殿と違って、
なんか頼りないなあ。
亮政殿の敵であった六角氏に媚びを売るとは!
こんな殿についていって大丈夫なのか?」

浅井家の家臣たちは、悩みます。

家臣たちの心配をよそに、
浅井久政は六角氏をますます頼っていく…。
当主である六角義賢の家臣の娘と
自分の息子を結婚させ、お家の存続を図る。
義賢の「賢」の一文字を与えられ、
この息子は「浅井賢政」と名乗ります。

…ここで、大事件が起こる。

1559年、野良田の戦いの前年、
何と浅井家の家臣たちが
当主、浅井久政に対して
クーデターを起こすんです!

浅井久政、強制的に隠居させられる。

息子の浅井賢政が家督を相続。
六角氏とのつながり「賢」の字を捨てて、
浅井長政と名乗るようになりました。
たった15歳くらいの時のことです。
今でいうと中学三年生。

…そうなんです、後に
織田信長の妹、お市の方と結婚する
「浅井長政」の爆誕!

1560年、怒りに燃える六角義賢は
浅井氏に向かって攻めてきます。
総勢、25,000人にも及ぶ大軍勢!
対する浅井長政は約1万人。
半分以下の兵力しかありませんでした。

この旧勢力である六角義賢と、
新勢力である浅井長政の戦いが、
『野良田の戦い』なのです。

浅井長政は、クーデターとほぼ同時に
六角方の武将の一人を寝返らせていました。
六角方はこの武将の城を攻める。
「水攻め」を行った、と言われます。

しかし、堤が決壊してしまい
あえなく水攻めは失敗…。
そこに浅井長政の軍勢が攻めてきて、
「野良田」というところで激突する。
現在の彦根市のあたりですね。

圧倒的な兵力差があります。

最初は、数に勝る六角軍が優勢でした。
しかし、緒戦の勝利で油断したところに、
浅井長政の軍が反撃を試みる。
精鋭を集めて、奇襲を仕掛けるんです。
虚を突かれた六角軍本陣は壊滅した。
あえなく逃げ出すことになる…。

若き英雄「浅井長政」の大勝利!

これ、桶狭間の戦いと
とても似ていますよね!

信長は今川軍の油断に乗じて、
奇襲をしかけ、今川義元の首を取った。
浅井長政も、敵将の六角義賢は
討ちもらしたものの見事に大勝利!

この戦いにより、
北近江は浅井氏が制圧することになります。
一方、負けた南近江の六角氏は
お家騒動が続き、混乱の渦に巻き込まれる。

この近江の情勢を東から見ていたのが、
そう、織田信長でした。

浅井長政はお市の方と婚姻し、
信長と手を結びます。
岐阜を手に入れた信長は、
足利義昭を奉じて上洛!
浅井長政はそれに協力!

1568年には、上洛を阻もうとする
南近江の六角氏と信長との間に
「観音寺城の戦い」が起きます。
織田・徳川・浅井の三家に攻められ、
六角氏はあえなく没落していく…。

…そう考えていくと、ですね。

1560年に「桶狭間の戦い」で勝利した
信長が首尾よく上洛できたのも、
同年の「野良田の戦い」で
浅井長政が勝ち、近江を掌握したから、

とは言えないでしょうか?

もし浅井長政がいなくて
六角氏が近江をずっと支配していたら?

そうやすやすとは
上洛できなかったように思うのです。
ひいては、室町幕府の滅亡、
本能寺の変にも辿り着かなかったかも…。

最後にまとめます。

本記事では1560年、近江の桶狭間こと
「野良田の戦い」について書きました。

…ただ、皆様、ご存知の通り、
浅井長政は悲劇的な結末を迎えます。
信長に突如反旗をひるがえして失敗、
滅ぼされてしまうのです。


なぜか?

真の理由は、藪の中。
織田家の支配に嫌気がさしていたのか。
信長を倒すチャンスを狙っていたのか。
隠居した父、久政がそそのかしたのか。

いずれにしても浅井氏は
信長軍の攻撃を受けて滅亡します。
…しかしながらその浅井長政の血筋は、
「浅井三姉妹」と呼ばれる
茶々、初、江(ごう)に受け継がれます。

茶々は秀吉の懐に入り「淀の方」となる。
初は浅井家の主筋、京極高次の妻となる。
江は徳川秀忠の妻となって、家光を生む。

安土桃山時代から江戸時代にかけて、
日本史を彩った三姉妹の源流もまた、
近江の「野良田の戦い」から生まれた、

と言えそうです。

※近江の英雄、浅井長政についてはこちらも↓

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