見出し画像

ホーエンツォレルン家、という一族。
ドイツ統一の核となったプロイセンの貴族!

特に有名な人物で言えば
18世紀の「フリードリヒ二世」
19世紀の「ビスマルク」でしょうか?

フリードリヒ二世は「万能の啓蒙専制君主」。
1712~1786年の人です。
プロイセンをヨーロッパの強国へと
押し上げた偉大な大王!
ビスマルクは一族の家臣で、
「鉄血宰相」の呼び名を持つ
1815~1898年の人です。
ヴィルヘルム一世~二世に仕えた名宰相。

本記事では、このプロイセン王家の
成立と台頭について書いてみます。

そもそも、えらく長い名前ですよね。
最初の頃は、ただの「ツォレルン家」。
1061年に初めて歴史書に現れる。
元々はドイツの南部の一族でした。

これに「ホーエン」がつく。
ホーエン(Hohen)とはドイツ語で
「高い」「高さ」などの意味。
同じくホーエンがつく一族には、
「ホーエンシュタウフェン家」等がある。

1191年、日本で言えば
源頼朝が鎌倉幕府を作った頃。
このホーエンシュタウフェン王朝の
神聖ローマ帝国の皇帝から、
ニュルンベルク城の伯爵に任じられます。
ここで「ホーエン」ツォレルン家と名乗る。
「ホーエンばやり」だった。

1415年頃からは
ブランデンブルク選帝侯領を治めます。
ドイツの南部から、東部に行くんです。
選帝侯とは、神聖ローマ帝国の
皇帝を選ぶ権利のある偉い人。

…ただですね、このブランデンブルク、
「辺境」つまり東の端でした。
今では首都ベルリンは大都市ですが、
当時は帝国の端っこに過ぎない。
人呼んで、ブランデンブルク「辺境」伯領。

1525年には一族がドイツ騎士団領を廃して、
プロイセン公国を建てた。
このブランデンブルクと
プロイセンが合体
するんです。
同じ君主を戴く同君連合!
これが、1618年のことでした。

…さて、1618年と言えば、神聖ローマ帝国、
当時のドイツ全体を巻き込む
「三十年戦争」が始まった年です。
1618~1648年。
日本では、江戸時代の最初のあたり。

長い戦争によって神聖ローマ帝国の
大部分は、多大な被害を被ります。
しかし、ホーエンツォレルン家の、
ブランデンブルク・プロイセンは
(あくまで他の地域に比べて)
壊滅的な被害までは受けなかった。

なぜか? …東の端、辺境だったから。
ここからホーエンツォレルン家の
台頭(を目指した動き)が始まる!

そもそも「ドイツ騎士団」とは
エルベ川を越えて東側に植民しようと
する人たちの集団。
武装勢力。スラブ人たちと戦う。
そのスラブ人たちとの戦いの最前線が、
ブランデンブルク辺境伯領だった。

古代~中世の日本史において
東北へと武士が領土を広げていく中で、
東国に武士団が生まれた。これに似ている。
戦いのプロなんです。…辺境ですが。

ただ、日本史で東国の武士が
京都の貴族にさげすまれていたように、
このプロイセン公国も、
「神聖ローマ帝国の辺境」ということで
実力を認めてもらえません。

それが三十年戦争後に
徐々に帝国内で存在感を増していく…。

1701年、猫背のフリッツ、という
あだ名の選帝侯が、ついに
「プロイセンにおける国王」に昇格します。
ハプスブルク王家の皇帝から認められて、
「選帝侯から国王に格上げ」!

その背景には、選帝侯の大胆な
「賄賂作戦」があった、と言われています。
国庫の中から莫大な金品を取り出し、
他の選帝侯や皇帝にばらまく。
兵士も援軍に出す。毎年、献金も行う。
どうか、国王として認めて下さい!と。

オーストリア・ハプスブルク家の
皇帝からすれば、辺境のよくわからない家が
お金をくれたから、国王に認めてあげる感じ。

こうして「フリードリヒ一世」
戴冠式を挙行しました。
ただ大都市ウィーンでは、
この戴冠式を全く相手にしなかったそうです。
「ふーん、そう」みたいな感じで。
この頃のオーストリア、
東のオスマン・トルコ帝国から
ハンガリーを奪って強国になっていた。
ぽっと出のプロイセンなど歯牙にもかけない。

フリードリヒ一世も、決して英雄ではない。

侍従長のアウグスト、元帥のヘルマン、
大臣のヴァルテンベルクたち三人に
実権を奪われたりしています。
(この三悪人を「3W」と呼びます。
Wは「ヴェー」「苦痛」の意味)

…そんなトホホな面もある王様でしたが、
彼の息子と孫はすごかった。

息子は、フリードリヒ・ヴィルヘルム一世

彼のあだ名は「兵隊王」です。
とにかく軍事力を強化しました。
彼自身、めちゃ細かくて、粗暴な性格。
ドラえもんのジャイアンみたいに
すぐ因縁をつける男…!

事実、190センチ以上の大男を
自分の軍隊に入れて、
「巨人」の軍団を作ったりしています。
人呼んで「巨人軍」(笑)!
まさに『進撃のプロイセン』。

彼の息子、王太子フリードリヒは
父親のあまりの圧に耐え兼ねて
家出したりしている。
王にバレて連れ戻されていますが。

家出の手助けをした
カッテという男の裁判で、国王は
「この世からカッテが消えるか
お前が消えるかどちらが良いか?」と
裁判官を脅迫し、
無理やり死刑判決を出させたりしています。
まさに「俺が掟」、ジャイアニズムの権化!

見せしめのためにカッテは、
王太子の目の前で処刑されました。
「私を許してくれ!」と王太子が叫ぶと、
「殿下のために喜んで死にます!」と言って
カッテは甘んじて斬首刑を受けたそうです。
フリードリヒは父王から
その光景を見るように強制され、
正視できぬまま失神した…。

こう書くと暴君、毒親そのものですが、
国を治める王としては、良い所もあった。
彼が節約を徹底したおかげで、
国庫にお金がたまったのです。
軍隊も、かなり強くなっていた。

その土台の上に国を継いだのが王太子、
高名な「フリードリヒ二世」なのです。
この人、文武両道、万能の天才。

でもなぜジャイアンみたいな父親から
こんなすごい人が育ったのでしょう?

実は、母親がイギリス国王の娘で、
洗練された宮廷人だったんです。
武骨な父親、芸術肌の母親!
教育方針は正反対だった。

1740年に即位したフリードリヒ二世は、
死んだカッテの分まで頑張って、
プロイセンを強国へと押し上げる…。
彼の治世の下、首都ベルリンには
自由な空気が満ちて
「北方のアテネ」と言われたそうです。

…その約140年後の1871年、
日本で「廃藩置県」が行われた年、
鉄血宰相ビスマルクの手腕もあり
ドイツ帝国が生まれます。
第一次世界大戦後に
ワイマール共和国が生まれるまで、
プロイセン王家はドイツ帝国の中心で
あり続けたのでした。

最後に、まとめます。

本記事ではホーエンツォレルン家の
成立と台頭について書きました。
『怖い絵』シリーズで有名な
中野京子さんは、この一族の歴史を
名画とともに語っています。

◆『名画で読み解く
プロイセン王家12の物語 (光文社新書) 』
興味のある方は、ぜひどうぞ!

よろしければサポートいただけますと、とても嬉しいです。クリエイター活動のために使わせていただきます!