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日本のカレーの起源は、イギリスから。
インド直輸入、インドから直接ではない。

インドで食べられていた
「スパイシーな香辛料を使った料理」が、
インドを植民地化していった
「大英帝国」イギリスにもたらされ、
「カレー(カリ)」となって、

それが明治維新期の日本に
イギリス人、欧米から紹介されて、
「カレー」という料理として
日本全国へと広まっていった…。

ワンクッション、挟まっている。
イギリスが。


日本人で、このイギリス由来のカレーに
初めて出会ったと記録に残っているのは
「山川健次郎」だと言われます。
会津藩出身、元は白虎隊(途中で離脱)。
アメリカへの国費留学生に選ばれ、
留学に向かう最中に洋食の一つとして出された
「ライスカレー」に出会った、とされる。

(もちろんそれ以前にも食べた
日本人はいたかもしれませんが…)

以来、陸軍や海軍、クラーク博士の札幌農学校では
「洋食」が奨励され、ライスカレーが出された。
1905年(明治38年)国産カレー粉の発売。
洋食ブームの中、危機感を覚えた和食の店が
「カレーうどん」「カレー南蛮」「カレー丼」
などを開発、1927年(昭和2年)には
「カレーパン」も登場!

戦後の1948年(昭和23年)には
カレーが全国の小学校で導入されて、
1950年(昭和25年)にはお馴染みの
板状カレールウが販売開始されました。

…と「日本での」カレーの歴史を探っていくと、
一つの疑問に辿り着いていきます。

「日本にイギリスから伝わったのは、わかった。
では、インドからイギリスに伝わったのは
どんな経緯があったのか?」

本記事では、インドからイギリスに
カレー(カリ)が伝わった経緯を探ります。

考える大前提として、
「イギリスとインドの関係」
知っておかなければなりません。

「大航海時代」以降、
欧州で高値で取引される「香辛料」は、
航海者たちが求めてやまないものでした。

しかし、直接、陸路で欧州から
インドに行くには障壁があった。
イスラームの「オスマン帝国」です。
トルコを中心として栄えた大帝国!

これを「迂回」して、海路でインドを目指す。
有名なコロンブスが西回りでインドを目指し、
大西洋を越えて見つけたところを
「インド」と勘違いしたのは有名な話。
「西インド諸島」という地名も残っています。

西インドもあれば、東インドもある。

東インド、という言葉は
「インドの東部」という意味ではない。
当時の欧州にとって、インド、という言葉は
とても広い意味を指す言葉でした。
西インドが、大西洋を越えたところのインド。
東インドはアフリカ大陸を迂回して着けるような
トルコ以東、インド、東南アジア~東アジア、
漠然とした広い地域を指す言葉でした。

この「東インド」を舞台として
商売に明け暮れる団体がいた。
そう、東インド会社

「オランダ東インド会社」と
「イギリス東インド会社」が有名ですが、
フランス、デンマーク、スウェーデン
などの東インド会社もありました。

先に栄えたのは、オランダ。

1600年、関ヶ原の戦いの年に結成。
「世界初の株式会社」としても有名。
マレーシアのマラッカを拠点として、
今のインドネシアのあたりを治めた。
東南アジアを固めたからこそ、
「鎖国中」の日本の江戸幕府とも
長崎での貿易ができたんです。

1600年~1650年頃、
17世紀の前半は「オランダ無双」状態。

ポルトガルやスペインを追い出す。
1609年、現在のアメリカのニューヨークを発見、
「ニューアムステルダム」と名付ける。
1623年、モルッカ諸島からイギリスを追い出す。
(「アンボイナ事件」と言います)
1643年、択捉島と得撫島に上陸、領土宣言…。

世界各地で活動していた。
1799年、フランス革命の頃に解散するまで
約二百年間、貿易で活動していました。

…さて、イギリス東インド会社は、
このオランダ東インド会社に
東南アジアから追い出された側です。

オランダに比べイギリスの東インド会社は、
最初の頃は「航海ごとに出資する」
ワンプロジェクト方式の組織だったため、
継続的に活動するオランダのそれより弱かった。

そこで、インドに向かう。

足掛かりとして、1639年、東部の都市に
セント・ジョージ要塞を築き、
この周辺を「マドラス」と名付ける。
1661年、国王チャールズ二世と
ポルトガル王女が結婚した際に
持参金として「ボンベイ」をもらう。
1702年には「カルカッタ」を獲得する。

…ただこの時点では、あくまで
「貿易のための足掛かり」として
会社の支社がある感じ。
国王の家臣ではなく、商人の集まり。

しかし、インドを支配していた
ムガル帝国の第六代皇帝、
アウラングゼーブが死去すると、
インド内では地方政権が樹立されていき
帝国は分裂状態に陥ります。

そこを、イギリスが狙っていった。
先頭に立ったのは、東インド会社!

1757年「プラッシーの戦い」
東部のベンガル(今のバングラデシュあたり)の
太守の軍勢を撃破、
直接、土地を支配する。
南部のマイソール王国、中部のマラーター同盟、
西部のシク王国と征服、植民地化…。

この過程で、イギリス東インド会社は、
自前の兵力を持ち、徴税権まで持ち、
「行政機関」へと変貌していきました。

大英帝国が栄えた舞台の裏には、
インドから獲得した莫大な富があった…。

ただ、行政機関として「失格」とされた
ある事件が起こります。
それが1857年「インドの大反乱」

イギリス議会は反乱を起こされた会社なぞ
統治機関としては失格!と議決、
会社の権限を国王に譲渡させました。
残務整理後、1874年、解散。
1877年にはイギリス領インド帝国が成立…。

というわけで、イギリスの
東インド会社の概要を見てきましたが、

ここの社員が、インドで富を蓄えて、
イギリス本国に凱旋したりするんです。
彼らは「インド成金」と呼ばれました。
ベンガル地方の太守の称号
「ナワーブ」にちなみ、
「ネイボッブ」とも呼ばれます。

彼らは本国に戻っても
インド風の文化や生活、料理を好んだ。
東インド会社から香辛料を取り寄せて、
「インド風の料理」を国内で楽しんだ…。

そうなんです。

このネイボッブたちが、イギリスに
カレー(カリ)をもたらしたのではないか。
すぐ作れるよう、複数の香辛料を
混ぜ合わせたガラムマサラなどを使用する。
これが「カレー粉」と呼ばれていく…。

それが巡り巡って、幕末・明治の日本に
「洋食」として紹介された…。

最後に、まとめましょう。

本記事ではイギリスにもたらされた
カレーの歴史を、東インド会社と
混ぜ合わせて紹介しました。

なお現在では、東インド会社が支配した都市、
マドラスは「チェンナイ」、
ボンベイは「ムンバイ」、
カルカッタは「コルカタ」に改名されています。
植民地風の呼び名から現地の名前へ。

読者の皆様も、次にカレーを食べる時には、
世界を旅をしてきた
その歴史に想いを羽ばたかせてみて下さい!

※『日本史で言えば関ヶ原 ~インドのパーニーパット~』↓

※『よく知っている歴史から比較 ~江戸幕府とムガル帝国~』

※『世界遺産フマユーン廟 ~ムガル帝国第二代皇帝の軌跡~』

※『ラーム・チャランさんと「進撃のインド人」』

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