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きっかわつねいえ、と読みます。

先日、私は吉川氏の二人について書きました。
関ケ原の戦いにおける「策士」
吉川広家(きっかわひろいえ)と、
幕末の岩国における「交渉人」
吉川経幹(きっかわつねまさ)

本記事では「吉川氏シリーズ」として
「吉川経家」(きっかわつねいえ)について
書いてみよう、と思います。
ちなみにこの人は
ある有名人のご先祖様に当たります。
誰でしょう…?
予想しつつお読みいただけますと嬉しいです。

吉川経家は、戦国時代の武将です。

名高い吉川元春、「三本の矢」の一本、
あの毛利元就の次男と同じ頃の人!
1547年に生まれ、1581年に死んだ。

吉川元春は1530年に生まれて
1586年に死んでいるので、
ほぼその年代はかぶりますね。

…ただ、吉川経家のほうは、
本家の吉川元春に比べて分家のほう。

吉川氏は、実は全国にいます。
というのも、平安時代から始まる
由緒正しい武家の一つだからです。

そのおおもとは、今の静岡県、
駿河(するが)から始まっている。
藤原為憲(ふじわらのためのり)、
平安時代中期の貴族で
平将門の従兄弟に当たる人。
彼の子孫である吉川経光が、
駿河の「入江」の「吉川」という
ところに住んだことから
吉川(きっかわ)と名乗り始めたそうです。

この吉川一族が、
1221年の「承久の乱」で戦功をあげる。
今の広島「安芸」の地頭に就任!
ここから、安芸での吉川家が栄えていく。

後に、その「安芸吉川家」を
次男に継がせることで取り込んだのが、
戦国時代の毛利元就なのです。

ただ先述したように、吉川氏は全国にいます。

吉川経光には子が多く、
元の駿河、新しい領地の安芸だけでなく、
播磨、石見、境などにも広がっていった…。

「で、吉川経家は、どこ中?」

…ヤンキーみたいな聞き方ですみません。
「どこ中?」と聞かれたら、
「中学校はこの時代にはありませんが、
強いて言えば『石見吉川家』の中ですね…」
と答えるしかない。

石見。いわみ。現在の島根県のあたり。

ここで1547年、吉川経家が生まれました。
父親は、毛利家の家臣。
毛利元就の次男、吉川元春は
安芸吉川家の後継ぎになります。
分家の石見吉川家の経家は、元春の下につく。

ただ、この頃の毛利家には強敵がいました。
そう、織田信長。
織田と毛利との激突!
その舞台の一つが「鳥取城」でした。

「…経家、織田軍が鳥取城を攻める。
助けに行ってくれないか?」

本家の吉川元春は、そう言いました。
分家の吉川経家は覚悟を示すため、
自分の「首桶」を持参して
鳥取城の守りへと向かいます。

1581年、鳥取城の戦い。

本能寺の変の前年のことです。
…ここで、凄惨な攻城戦が行われる。
織田軍の大将は羽柴秀吉。
秀吉は、色んな城の攻め方を知っています。
ここで採った作戦は『兵糧攻め』です。
城を囲み、道を封鎖して、
城内に食べ物を与えない作戦…。

三か月も経つと、城内に
犠牲者が出てきました。
ついに吉川経家は、
「降伏する。でも自分が切腹するから、
城兵たちは助けてくれ!」
と申し出る。

秀吉も英雄、さる者です。
こう返答しました。

「文武両道の吉川経家殿は
ただこの城を助けに来ただけであろう?
勝敗は武門の常だ。
お主の命まで取ろうとは思わない」

経家の才能を惜しんだのでしょう。
しかし、経家にもプライドがある!

「いえ、城主である私が
責任を持って切腹しますので、どうか」

譲らない。
秀吉はわざわざ信長の意見を確認した。
「経家の切腹、その覚悟やあっぱれ」
信長は、敵方の総大将である
経家の切腹を許可したのでした。

1581年。経家は皆を守って死去。
子どもたち宛にこんな遺書を残しています。

「とつとりのこと
よるひる二ひゃくにち こらえ候
ひょう(ろう)つきはて候
我ら一人御ようにたち
おのおのたすけ申し 一門の名をあげ候
そのしあわせものがたり
おききあるべく候」


(大意)

「鳥取では、夜昼二百日もの長い間、
敵の攻撃を防ぎ、こらえてきました。
しかし、食べ物が尽き果ててしまった。
そこで、我らは一人一人が
できることを探して、御用に立ち、
みんなを助けて、吉川家の名を上げました。
その幸せな物語を聞いてもらえると嬉しい」

…どうでしょう?!
死の間際で、このようなことを
子どもたちのために書けるとは…!

秀吉の兵糧攻めには負けたものの、
知勇兼備、
慈愛の深い武将だったと思います。

経家の子孫は後に鳥取藩の池田家に仕え、
吉川の家名を鳥取の地で残していく…。
これが「石見吉川氏」のお話なのです。

「…それで、有名人の子孫のお話は
どうなったんでしょうか?」

ええ、ここから、そのお話をしていきます。

石見吉川家は、本家の安芸吉川家とは別に
江戸時代を鳥取の地で過ごしていきます。

幕末の1860年、桜田門外の変の年、
この吉川家のある人物が切腹する。
立ち会ったのは、その子ども。

「侍、武士というものは、
家の名誉のために切腹を強要される…。
ああ、何と悲しいものなのか!」


自分の父の死を間近で見せられ、
その子は武士を捨てる決意をした。

僧侶への道を歩んでいく。
江戸の増上寺に入る。
その子どもも、僧侶になる。
同じく江戸の易行院の住職になります。

武士をやめたので、名字も変えました。
「吉川」から「吉河(よしかわ)」に…。

さて、この易行院で生まれたのが、
吉河寛海(よしかわひろうみ)という人。
1932年のことです。

戦争へと向かっていく時代。
寛海青年も東京大空襲に遭います。
一家は、何とか命をとりとめた。

「これからは食糧難になる。
…ご先祖様も兵糧攻めで苦しまれた。
寛海、お前は農業をやれ!」

父の言葉に従って、寛海は
農業学校に入学します。
ただ、彼には運命の出会いが待っていた。

落語です。上野の鈴本演芸場で落語を見た。

「戦争ですべてを失った暗い人たちを、
話一つで笑顔にできる落語家…!
これこそ、俺の進むべき道!」

寛海は、六代目三遊亭円生に入門。
落語家になります。
後に五代目の三遊亭円楽になります。

そう、笑点の円楽さん、なんです。

「山田君、座布団全部もっていきなさい」
司会をやっていた円楽さん…!
(元「楽太郎」だった六代目円楽の師匠です)

最後にまとめます。

本記事では、戦国時代の吉川経家から、
円楽さんまで書きました。

みんなを守って切腹した武将、吉川経家。
みんなを笑わせて幸せにした、円楽さん。

経家の遺書をもう一度引用します。

『一人一人ができることを探して、御用に立ち、
みんなを助けて、吉川家の名を上げました。
その幸せな物語を聞いてもらえると嬉しい』

経家の子孫、円楽さんは、
自分にできることを探して、
多くの視聴者の笑顔をつくっていった。


そのように私には思われるのです。

※鳥取に行く時は砂丘だけでなく
鳥取城跡やまちなか散策も、ぜひ↓

※戦国の「策士」吉川広家の記事はこちら↓

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