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落ち着け、「教養」


「教養」が漂っている。


「あの人、教養あってすごいよね」
「一流のビジネスパーソンになるためには教養が必要だ」
「教養としてワインを嗜んでいます」
「私って教養ないから」
「教養のために〇〇のYouTubeを見てるんだ」
あれも教養、これも教養。

Amazonでベストセラーを調べてみると、「教養」という言葉の多さに気づく。
1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365
世界のエリートが学んでいる 教養書必読100冊を1冊にまとめてみた
アメリカの大学生が学んでいる本物の教養
ビジネスエリートになるための 教養としての投資
サクッとわかる ビジネス教養  地政学」世界のビジネスエリートが身につける 教養としてのワイン
教養としての歴史小説
などなど。

人々がいかに「教養」を身につけるための努力をしているかが窺える。
私はこの現象に、違和感しか感じない。この違和感を分解したいというのが、まあ問題意識だ。

はじめに、このnoteは長い。いや、いつも長いんですけど。もう少し長い。しんどい方は適宜飛ばし飛ばしお読みください。特に問題ありません。

背景

簡単に自己紹介と書くことになったきっかけを残しておきます。飛ばしていただいてまったく問題ありません。

リベラル・アーツ大学にいる人間として

私はいま、教養学部アーツ・サイエンス学科という厳めしい名を冠したところで歴史学を学んでいる。ちなみに教養学部の英語表記は「College of Liberal Arts」になる。それもあり、ここでは便宜上「教養=リベラル・アーツ」と捉えることにする。

それなりにマジメな私は、「自分は何を学んでいるのか」「何のためにやっているのか」「ここで学ぶ意義は何か」みたいなことに日々向き合っている。はずだ。 曲がりなりにも「リベラル・アーツ」をやってもうすぐ3年が経つ。「教養とは」という問いに対して、現時点での考えをここでまとめておきたいと思っていた。

『ファスト教養』への勘違い問題意識

冒頭で述べたように、私は「教養」が叫ばれまくることに、なぜか悶々としている。
そんな折、吉祥寺のジュンク堂にぶらっと立ち寄ったときに『ファスト教養:10分で答えが欲しい人たち』という本が目に飛び込んできた。気づいたら買っていた。そして読み終わっていた。
共感するところ、同意しないところもあったが、「教養」を考えたい欲が溢れてきたので、このnoteを書くことにした次第である。


「教養」の現在地

「教養」という言葉は、自己矛盾を抱えているようだ。
まずは、冒頭述べたような、昨今もてはやされている「教養」について少し考えたい。

『ファスト教養』の著者レジーは、これを「ファスト教養」として以下のように定義している。

「楽しいから」「気分転換できるから」ではなく「ビジネスに役立てられるから(つまり、お金儲けに役立つから)」という動機でいろいろな文化に触れる。その際自分自身がそれを好きかどうかは大事ではないし、だからこそ何かに深く没入するよりは大雑把に「全体」を知ればよい。そうやって手広い知識を持ってビジネスシーンをうまく渡り歩く人こそ、「現代における教養あるビジネスパーソン」である。着実に勢力を広げつつあるそんな考え方を、筆者は「ファスト教養」という言葉で定義する。

レジー『ファスト教養』(集英社新書、2022年)27項.

ビジネスの世界でうまくやるためのテクニックとして教養が語られているということだ。そこには、正体のわからない漠然とした不安があるという。

本当に学ぶべき教養とは具体的に何なのか。その教養を学ぶことで、時代の変化にどういう形で対応できるようになるのか。そんな話は当然示されることなく、「教養が必要」という漠然としたメッセージと「教養を学ばないとやばい」というそこはかとない不安が増幅されていく。

同書、52項.

これは言い得て妙だと思う。

また、教育学者の中村高康の指摘も興味深い。

(コミュニケーション、問題解決、主体性などの「新しい能力」は)これまでも求められていたし、これからも求められるであろう陳腐な能力であって、新しい時代になったから必要ないし重要になってきた能力などでは決してない(中略)
いま人々が渇望しているのは、「新しい能力を求めなければならない」という議論それ自体である

『暴走する能力主義:教育と現代社会の病理』(『ファスト教養』より)

「教養とは何か」という悠長な議論などする間もなく、「とにかく新しい能力が必要だ」という不安が、人々を駆り立てている。そこで白羽の矢が立ったのが、万能なテクニックとしての「教養」ということなのだろう。


似たようなこととギリギリいえるくらいのnoteを以前書いたことがあるので、興味がある方は参照されたい。


次は、こうした「ファスト教養」に対する「古き良き教養」とはどんなものかを探りたい。
もちろん、古き良きものが素晴らしいというつもりはなく、言葉の意味が移り変わっていくことは不可避でありまた言語の面白さだと思っている。
だが、あえて強調したいことは、書店でよく目にする「教養」は、決して「教養」にも「リベラル・アーツ」にもなり得ないということだ。そして、(私が)良い(と思う)「教養」という錦の御旗は、高く掲げられていてほしいという願いもある。

あくまでも私個人の意見であり他人に押しつけるつもりはまったくないことを最後に添えておきたい。勝手にしてもらえばいいと思っている。 レリゴーである。これでいいの。自分信じて。少しも寒くないわ。


教養の定義を試みる

様々な定義

まずは、辞書的な意味として、最初に辞書的な定義を見てみよう。ぶっちゃけ、これはほぼ儀式的に行っている。

ア. 学問、幅広い知識、精神の修養などを通して得られる創造的活力や心の豊かさ、物事に関する理解力。また、その手段としての学問・芸術・宗教などの精神活動。
イ. 社会生活を営む上で必要な文化に関する広い知識。

「デジタル大辞泉」より。

辞書編纂者の凄さをひしひしと感じながらまとめると、豊かな知識・心・理解力やそれらを得るための手段を教養と呼ぶようだ。反論のしようがなく、してもあんまり面白くないのでスキップする。


『ファスト教養』から、2つ紹介しよう。

東大・ICUの名誉教授である村上陽一郎によると、教養とは「慎みがある」ことであり、「野放図な欲望の発揮を慎むための原動力として教養を考えることは、間違っていないと私は考えます」と述べている(中央公論2021年8月号「教養と自己啓発の深い溝」)。

これは深い。「深い」とだけ言うと一気に浅い感想となる現象は何なのだろう。深さまでもインフレしないでほしい。
それはさておき、「慎みがある」という定義は、オウム真理教を例に考えると非常に含蓄がある。地下鉄サリン事件で猛毒をばら撒いたオウム真理教は、理工系のエリートが多く入信したとして知られる。裏返せば、彼らに宗教の知識や社会への洞察といった歯止めとなる「教養」が備わっていれば踏みとどまることができたのでは、と考えずにはいられない。もちろん、結果論であるが。


また、慶應義塾の塾長も務めた小泉信三は、工学博士の谷村豊太郎を引いて「すぐ役に立つ人間はすぐ役に立たなくなるとは至言である。同様の意味において、すぐ役に立つ本はすぐ役に立たなくなる本である」(『読書論』)と述べた。
「すぐに役に立つものは、すぐに役に立たなくなる」という一節は、みんな大好き池上彰も頻繁に引用している。私もかなり好きだ。


弊学の授業で耳にした、とある先生の素敵な定義も紹介したい。なお、これは「Critical Thinking」を定義したものであるが、まあ似たようなもんだべと思って紹介する。厳密性は何処へ。

Critical Thinkingの本質は、結論を先延ばしにすることです。これは答えを出さなくていいということではなく、常に考え検証し、短絡的に結論を出そうとしないという意味です。

聴講した言語学の授業より。大変申し訳ないこと、途中から面倒になって行かなくなってしまった。

「結論を先延ばしにする」とは、「慎みがある」とも強くつながっているように思える。


最後に、たまたま読んでいた本で、直接「教養」という語には触れていないが面白かったものも紹介したい。高橋源一郎『ぼくらの戦争なんだぜ』にある一節である。

共通歴史教科書をつくることは困難だ、ということの中に、民族や国家というものの壁を越えることの困難さの本質が浮かび上がる。
だが、このような困難に気づくことは、教科書以外の本からも可能なのかもしれない。民族や国家以外の拘束もあるだろう。ぼくたち人間を縛るもの。ぼくたちを自由にさせてくれないもの。それらの存在に、ぼくたちは、ときに気づき、ときにまったく気づかない。だが、それらの拘束もまた、ぼくたち人間を定義するものなのだ。ぼくたちは完全に自由な存在ではない。そのことこそが、ぼくたち人間の根拠なのかもしれない。それらのことに気づくこと。それがわかる、ということ。そこには、ただ本を読む以上の何かがある。そして、そこにも、「たのしい知識」の場所があるのだ。

高橋源一郎『ぼくらの戦争なんだぜ』朝日新書、2022年、99項。

拘束に気づく、不自由がわかるということ、これはまさに「リベラル・アーツ」っぽさを感じる。限界や不知の領域を自覚することもまた、教養の一部だと思う。

さてさて、このままでは無駄に厳かな空気を漂わせた議論紹介おじさん、あるいは適当に記事をまとめているだけのなんの意味もないまとめサイトになってしまうので、自分なりの考えも表明したい。


自分なりの定義

滔々と偉そうに述べてきたものの、ものすんごくイケてる「教養」の定義を持っているわけではないと、保険をかけておきたい。現代日本では予防線とWi-Fiが同程度に張り巡らされていると思う。

参照点という教養

まず、全然面白味のない定義っぽいやつを紹介したい。結論ファーストでいこう。

「教養とは、様々な参照点から、物事を多面的に捉える力」としたらどうだろう。
「Liberal "Arts"」だから「技術」としてもいいかもしれない。弊学の影響でCritical Thinkingも入れたいが、「批判的」という訳はしっくりきてないし、カタカナに逃げるのも癪だったので省いた。別になんでも「カタカナ語=逃げ」だと信じているわけではない。

「参照点」が私なりの肝だ。言い換えれば、視点である。三次元の座標のイメージから、こっちのほうが好みだった。

例えば、「天ぷら屋で店長が魚の『キスちょうだい!』といったところ、バイトが投げキッスをして店長がブチギレた」というニュースを見たとしよう。
この微笑ましいニュースに対しても、参照点はいくつかある。「女子高生」という見出しからはジェンダーについて考えることができるし、魚の見識があればより面白くなるかもしれない。言語学に精通していれば、より深く掘ることもできるだろう。我ながら何を言っているのかわからなくなってきた。

わかりやすい例としては、気候変動も挙げられよう。
え? 最初からわかりやすく言えって?
若者よ、答えに飛びつくでない。
気候変動に対する物理学や地学などの自然科学的アプローチの重要性は言わずもがな、解決のためには政治や経済などの社会科学的な視点も欠かすことができない。未来を描くためには、人文学的な視点も必要になってくるかもしれない。現在支配的な参照点だけでは限界があるからだ。


参照可能な切り口が多ければ多いほど、点は線へ、次いで面となり、立体になる。より複雑で正確な形もわかってくる。前からじっと見ているだけだったものとは、まったく違った景色を見せてくれる。こうした力を、私は教養と呼びたい。
参照点がいくつもあれば、それぞれからの歯止めがかかる。各点からの良心が短絡的な思考を繋ぎ止めるからだ。これはまさに「慎み」であり「結論の先延ばし」にもつながるんじゃないだろうか。


また、この「教養」はある意味で「ファスト教養」とも親和性がある。
「知識を増やせばいいじゃないか」と。
一定程度、的を射ている。現在の「教養」が漂流しているのもこの点だと私は思う。 様々な知識人は「教養」として多くの知識や視点を提供する。皮肉にも、彼らの提供するものは時代の波に乗せられ、断片化した「知識」が一人歩きしているのだと思う。

違いはといえば、態度だろうか。
「結局精神論かよ!」との声が聞こえてくる。私は言いたい。
「そうだよ!」

「ファスト教養」の影には、果てしもない不安がある。すぐに役に立つものが求められる。逆にいえば、「すぐに役に立たせようとしない」「知恵自体を楽しむ」ような態度が欠かせないのかもしれない。
これは定義に入れられなかったので、もう少し考えたい。


そのほかの「教養」

「教養は木の幹、知識は枝葉」

これは山田五郎さんとかが言ってたような気がする。
幹は一朝一夕で太くなるものではない。いくら葉を集めても、風が吹けば容易に吹き飛んでしまう。
しかし、しっかりとした幹があれば、軸の強さがあれば、枝葉は勝手に増えていくのである。つまり、体の軸を強化するAXFが最強なのだ。

「教養とは、パレットの絵の具」

なんかオシャレに言えないかなーと思って考えていたやつだ。
自分の手にある色の数が増えていけばいくほど、世界はよりカラフルに、鮮やかに見えてくる。絵の具が足りなければ退屈に見えたものも、彩られることで息を呑むような面白さを感じられるかもしれない。
え? クサいって? ちなみに中2の前期、美術の評価は3だった。


おわりに

私はときどき友人と学問の話をする。なんとか社会学とかうんたら工学とか教育あれこれ学みたいな、すっげー専門的なにおいのする話もけっこう好きだ。

自分自身もいま、割合まじめに歴史学をやっている。
論文や本を読み、手法だとか偉大なる先輩方の研究だとかを学んでいく。専門性は深まっていく。わかることもわからないことも増えていく。
いろんなジャンルや哲学や研究史に触れる。楽しいことだ。

しかし、少し怖い。
議論の中で「歴史学的には」と話し出す自分が、だ。

専門にこだわるあまり、全体としての視点を失ってしまうのではないかと。


20世紀スペインの思想家オルテガ・イ・ガセットは、専門家の限界について警告しているらしい。
近代以降の学問は專門分化が進み、自らの領域しか知らない専門家が増えた。ゆえに彼らは、総合的・根源的な考えを失ってしまう。
彼はこれを、「近代社会の病」と考えた。

このnoteは、近代そのものへの問いかけである、といえば、間違いなく過言である。
そこまで大きく出るつもりはない。

とはいえ、このままでいいのだろうかと考えずにはいられない。
それでも、時代は回っている。まわるまわるよ。

思うのはただ、この答えの出ない気持ち悪さを抱えながら歩くしかないということか。これでいいのだという結論を先延ばしにして。

それこそが知的な体力なんだと、2024年3月の私は思う。

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