せうりく
なるたけ毎週水曜日に私の自室からお届けする、こぢんまりとした思索と妄想のエッセイ。
みじかい小説たち。
あのころの回想エッセイ。
心がひどく抑うつ的になると、本を読めなくなることがある。 文字を見て意味を理解するという行為が心底億劫で、やっとこさ本を開くことができても、数行だけ読んだところで身体が処理を拒絶してしまう。 本を読むのは、とてもむずかしい。 意味の続いた長い文字列を、物語であれ論考であれ、ひとつの体系として理解するには高度な情報処理能力が求められる。慣れも必要だし、読み手としてのコンディションも重要な条件だ。 長らく読書という行為に対して苦手意識を抱えていた僕がようやく本を読む
まったく理不尽な世界だ。めくらましで人々から金を吸い取って立ち上げられたニュース番組は連日、某国の軍がクーデターを起こしたというのではしゃいでいる。 無辜の民に振り撒かれる、際限のない暴力。それは自力で避けることができず、抗うことも許されないという点で最も象徴的な、百点満点の暴力だった。 しかし、この世界における暴力というのは、肉体的なものに限らない。言葉の暴力というフレーズが普及して久しいこの頃、どうやら精神的な暴力もあるらしいぞと世間がようやく認識しはじめたらしいが
本を読むのが面白すぎて文章を書いている場合ではないので、今週の「週刊自室」はお休みです。かわりにみじかい小説をどうぞ。
「遊び誘って〜今月は暇だよ〜」 ポリくんから1ヶ月ぶりに連絡が来た時、僕は正直戸惑った。 これ以上彼と会話しても否定的感情が募るだけで得られるものは何もないと思っていたし、その気持ちはポリくんからしても同じはずだった。 最後に彼と会ったのは3月の半ばで、僕と彼は「恋愛の気持ち悪さ」をめぐって衝突した。なんとも青年期らしい話題だと思われるかもしれないが、その実ぶつかり合っているのは3月いっぱいで高校を中退することが決まっている進路未定の18歳と、小学校6年生の頃から不
この間、精神科で薬をもらった帰りのことだ。 最近は睡眠生活の調子が良く、気分も優れた状態が続いていたため、チリチリと雨粒の描線が紛れるローコントラストな視界さえ、その日の僕にとってはさわやかな春の一場面だった。 自宅からクリニックまでの二十分程度の道のりは、普段ならそのほとんどが、舗装されて大地と隔絶した病的に安らかな道を訥々と歩いてゆくだけの実に味気ない作業でしかなかったが、その日は違った。 咲いている。 花が咲いているのだ。 心から喜ばしい意味で、道々に花が
阿部寛はバカとブスを互いに排反だと思ってる説好き。 こんにちは、せうりくです。 今回は、この「〜好き」構文の話です。 こうして無為徒食の日々を送っているとYouTubeの魔の手から完全に逃れることはもはや難しく、作業(無為徒食のわりになにかしらの作業をしている)や休息(無為徒食なので毎日が休息)の背景として動画を流して環境音にする、という行為に走ってしまうことが往々にしてあります。今も流しています。 まあ私の現状はともかくとしても、今日では、どのようなチャンネ
1 よしおには医学がわからぬ。けれども死に対しては、人一倍に敏感だった。 ある時、よしおが執行を担当した死刑囚・竹原ムービー銃はこう言った。 「こう、『ソナチネ』みたいな感じでさ、こめかみに銃口を当てて処刑してくれよ」 よしおは激怒した。 こめかみを銃で撃つ方法は、失敗に終わる可能性を孕んでいる。 銃口がそれてしまったり、銃弾が頭蓋骨に跳ね返されてしまう場合があるのだ。ヒトの頭蓋骨は、思っているより丈夫である。 「でたこいつ、アホですわ。殺す」 よし
生んでくれと頼んだ覚えはないそこのあなた、こんにちは。 生まれてきてしまったものは仕方がないと思っている私です。 まあ親だってこんな子を産むつもりはなかったでしょう。そう考えると親も被害者ですよね。こんな子で申し訳ない。 さて、今日は明るい話です。 明るいといっても、自殺についてのあれこれを書くつもりなのですが。 自殺という課題に当事者として取り組んできた(つまり死にたがりな)身としては、自殺とはより幸福な状態に至るための手段のひとつであって、それはいかにして幸
私は幼稚園が好きではなかった。 というか、家が好きすぎるあまり、外に出るのが嫌いだった。 少しずつ自他境界が見え始めた頃の私にとって、家というのは、自分をこの世界の全ての不安から守ってくれる唯一の場所だった。 家に居れば、何の心配もない。 その一方で、ひとたび家の外に出ると、いいようもない不安の霧が私をとりかこんだ。 家は私の母国だった。 家の外に一歩踏み出せば、そこはもうよその国だった。 私はこの母国に永住するつもりでいた。 ずっとここにいれば、衣
食べられる雑草の本を購入した。 もう所持金は無いに等しいが、欲望に駆られて煩悩塗れの弁当を買ってしまうよりかは賢明な選択だったに違いない。 私は、まんまと弁当を購入した別の世界線の自分に哀れんで同情した。 それが自分にとってただ一つの、優越を覚える手段だった。 拾い物のパスケースを曲がらない程度に握り締め、どうして自分がこの力加減を知っているのか、思い出そうとする。 しかし出てくるのは、過去の私が漠然と抱いていた、いずれ自分にも訪れるであろう保障された未来、そ
本当にありきたりな話で申し訳ないのですが、私はYouTubeで好きな音楽に巡り会うことがときどきあって、そこからなんやかんやCDやDVDを購入することがあります。 YouTube Premiumには加入していないので仕様にうんざりすることも多いものの、YouTubeのおすすめ機能にはさんざん救われているわけですから、頭が上がりません。 はじめは「なに、ちょっと気になるけど俺はたったそれだけで動くほど軽い人間じゃないぞ」だとか考えておすすめを敬遠しつつも、あんまりしつこ
「ふゆのころ」では、あなたにとって全くどうでもいい事柄のひとつであろう私のバックグラウンドについて、心底うざったいくらいに懐古していく。 私は、社会的な意味を持たない事柄が好きだ。 もしそんな私と同じように、あなたが利益的でないものごとをこよなく愛する方であるなら、もしかすればこの連載は、あなたにとってわずかながらでも極めて個人的な意味を持つことになるかもしれない。 そうであるなら、私にとって、それは至上の喜びである。 記憶の道のりを辿れる限りたどった先に見えて
この記事にお手を触れてくださったあなた、はじめまして。 せうりくと申します。 メンダコのぬいぐるみが好きな、すこやか人間です。 私の名前についてですが、せうりくと書いてショウリクと読みます。 本名です。 本当です。 どうあがいても明らかな事実です。 もう覆しようがないです。 僕の出生届にはきちんと「古賀 せうりく」と丸っこい文字で書かれていますから。 ほんとうですから。 そう聞くと嘘くさいですよね。 そうなんですよ。 嘘なんですよ。