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「名言との対話」4月13日。石川啄木「詩はいわゆる詩であってはいけない。人間の感情生活の変化の厳密なる報告、正直なる日記でなければならぬ」

石川 啄木(いしかわ たくぼく、1886年明治19年)2月20日 - 1912年(明治45年)4月13日)は、日本歌人詩人。享年26。

岩手県出身。浪漫主義詩人として頭角をあらわし、19歳で詩集を刊行。東京で朝日新聞のつとめる。1910年刊行の『一握の砂』で歌人としての名声を得る。

2005年に 岩手県石川啄木記念館を訪問した。記念館では書籍は現地でしか手にはいらないものがある。近親者の書いたものや周辺者の感想などが面白い。盛岡中学の10年後輩の宮沢賢治記念館と比較すると、石川啄木記念館は粗末だ。啄木は借金を踏み倒す、浮気はする、友人の金田一京助に迷惑はかけるで地元の評判はあまり芳しくなかったことが伺われる。 盛岡中学時代には「あめつちの酸素の神の恋成りて、水素は終に水となりけり」と詠んで皆を驚かせている。

2007年に函館を旅行した。旅行中に函館市市文学館をのぞいた。一階は函館ゆかりの文学者の展示コーナーだった。今東光(1898ー1977年)、今日出海(1903-1984年)、辻仁成(1959年生まれ)、亀井勝一郎(1907ー1966年)、井上光晴(1907-1966年)などの資料展示があった。二階は石川啄木の展示だった。亀井勝一郎の 「人生 邂逅し 開眼し 瞑目す」という名言が展示されていた。

函館近郊の大森海岸沿いにある石川啄木が和服姿で頬杖をついてもの思いにふけるブロンズ(青銅)像がある。下駄履きの袴姿である。この小公園は海岸沿い、道路沿いに長いのだが、ちょうどカモメが飛ぶルート上にあるようでひっきりなしにカモメが啄木の頭の上を優雅に飛んでいく。
「潮かおる北の近辺の  砂山のかの浜なすよ  今年も咲けるや」
「砂山の砂に腹這い初恋のいたみ  遠くおもひ出ずる日」

この小公園の脇に「函館記念館 土方・啄木浪漫館」が建っている。この記念館は株式会社味の豊が設立二十周年記念で建立したものである。2階が啄木、一階が土方歳三関係の資料を展示してある。小劇場があり、故郷の渋民村の代用教員だった時代の石川啄木の先生姿と数人の子供たちのほぼ等身大の姿をした人形が動くというしかけである。啄木はなかなかの好男子である。その啄木の紹介で短い映画をみることができる。
啄木は三行歌を発明し、その器に多くの名歌を盛り込んでいる。
「頬つたふ
 なみだのごわず
 一握の砂を示しし人を忘れず」

「はこだての青柳町こそかなしけれ
 友の恋歌
 矢ぐるまの花」
「東海の小島の磯の白砂に
 われ泣きぬれて
 蟹とたはむる」
「しらなみの寄せて騒げる
 はこだての大森浜
 思ひしことども」

啄木が愛した大森浜は、やわらかい風、潮騒、白い砂、カモメの飛翔、そして子供をはさんで両親が左右で手を握っている姿など、印象に残る浜だった。啄木の生涯は短く26歳でこの世を去っている。

詩は短いから人々の印象に強く残る。「俳句はやっぱり「小さすぎ」ではないだろうか」と言っていた寺山修司が晩年にはもっと俳句をやっていればよかったと後悔したように、短詩は長い時間を生き抜いていく。河上肇『貧乏物語』は石川啄木の「働けど働けどわが暮らし楽にならず、じっと手を見る」を引用し格差社会の改革を貧困側から描き、格差を解消すべきとした。

1910年に石川啄木を選者として始まった「朝日歌壇」に、2014年2月17日に母の歌を発見した。「人麻呂の歌碑訪ひ来たる奈多の海ゆ伊方原発遠く光る見ゆ」(中津市・久恒啓子)。大分県の奈多海岸の柿本人麻呂の歌碑を母と一緒にみたことある。また四国の伊方原発は妻との帰省中に宇和島別府の船の中で見たから、この情景はよく理解できる。この歌を採った選者の心にも響いたのだろう。1970年から、代表的歌人4人がそれぞれの視点で投稿から秀作を選び解釈や評価を記している。この歌については選者の高野公彦が「奈多(国東半島の南部)から見る白い異物」という言葉を加えていた。

やはり短歌の影響は大きい。「詩はいわゆる詩であってはいけない。人間の感情生活の変化の厳密なる報告、正直なる日記でなければならぬ」。

「多くの人は日記を書くが、私は絵を描く」と語ったピカソと同じように、短歌は啄木の日記だったのだ。

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