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「名言との対話」9月23日。頼山陽「汝、草木と同じく朽ちんと欲するか」

頼 山陽(安永9年12月27日(1781年1月21日) - 天保3年9月23日(1832年10月16日))は、大坂生まれの江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人

頼山陽日本外史』全22巻800ページ。長編歴史小説であり、幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、ベストセラーとなった。1826年に完成し、翌年に老中松平定信に献上した。草稿ができてから20年近くの年月が経っている。この本は幕末の志士たちに大きな影響与え、明治維新につながっていった。

没年齢で古今東西の著名人の死に際を書いた、山田風太郎『人間臨終図巻』(徳間文庫)によれば、死力を尽くして『日本政記』を書き上げ、その数分後に息を引きとった。この天衣無縫の遊蕩者は、妻の行く末の安泰の手立てを記した遺言状を残し、感激させている。ところが山陽にはこのとき愛人・江馬細香があったのである。

今回、『渡部昇一の中世史入門 頼山陽「日本楽府」を読む』を手にした。「まえがき」では、武士の時代を武士の目で視ることを視点としたとし、山陽が「面白い」と「詩になる」ところが描かれているとしている。

頼朝は沈毅、思慮深く、温雅の風があり、よく将士を畏服せしめたが、疑い深くそねむ性質があったとしている。それが義経の悲劇となった。

尼将軍・北条正子の成功は、女としてパートナーを選ぶ能力が高かった。夫に頼朝、頼朝死後は北条義時、泰時。知恵袋は大江広元。この眼力によって古今に比類のない業績をあげた。

蒙古襲来という危機を救ったのは、神風であったという説が流布されていた。それは天皇家の貴族側の見方であった。武士の側からみれは8代執権の18歳の相模太郎北条時宗の功績であるという新史観を提出したのである。

2018年に福山市神辺の菅茶山記念館を訪ねた時、頼山陽は塾「黄葉夕陽村舎」の都講(塾頭)をつとめていたことを知った。暴れ者の頼山陽は満足できずにこの塾から出奔している。

2020年に町田市文学館ことばランドで開催中の「20X20原稿用紙」展を訪問した。鉄眼道光『一切経』(1678年)には、20字・10行。江戸の出版文化で誕生。そして頼山陽は22字10行の原稿用紙をつくった、とある。

「西の頼家、東の大槻家」。頼山陽の父は詩文や書に秀でた頼春水。山陽の三男が幕末の勤王の志士で詩人の頼三樹三郎だ。大槻家は、蘭学者大槻玄沢、漢学者の盤渓、『言海』の文彦を輩出している。

「日本のビール王」馬越恭平は、大坂で頼山陽の弟子の後藤松陰の門下で儒学を学んでいる。山陽には弟子も多かった。大塩平八郎は友人だった。

無類の酒好きの頼山陽にある人が人生の幸福について質した。咄嗟にでた返答は「剣菱」だったという(日経新聞文化欄2022年1月23日。樺山紘一)。山陽は「白雪」「男山」も愛していた。

川中島の信玄と謙信の激闘を描いた漢詩は詩吟などでよくうたわれる「鞭聲粛々、夜河を過る。暁に見る、千兵の大牙を擁するを。遺恨十年、一剣を磨き、流星光底、長蛇を脱す」は山陽の策である。不遇な生涯への不平を剣で払うといういみが込められているが、何事であれ十年の歳月を投入して自身の技を磨けという趣旨に使われるている。

司馬遷の『史記』は「十二本紀・十表・八書・三十世家・七十列伝」の全百三十巻。それにならって頼山陽は「三紀・五書・九議・十三世家・二十三策」という大構想を立てていた。頼山陽は日本の「史記」を著そうとする志を持っていたのだ。

頼山陽は、大著『日本政記』を完成してその日に死んでいる。劇的な人生であった。享年は52。

郷里の大分県中津市の「耶馬渓」の命名頼山陽であり、馴染みのある名前だったが、今回その人となりを知ったのはよかった。

山陽は「男児学ばざれば則ち已む。学ばば当に群を超ゆべし。安くんぞ発奮して志を立て、以て国恩に答え、以て父母を顕さざるべけんや」と、志を述べている。偉人の子にはろくな人がいないのが普通だが、偉人の母はほとんどが賢母である。この人もそうだった。

「自分を才子だというのは、自分を知る者ではない。自分を刻苦勉励ののちに一人前の男になったのだという者がいるならば、その人こそ真に私を知っている者である」

頼山陽は勉強するときに、冒頭の言葉を紙に書いて書籍の間にはさんでいた。路傍の石になりたいくない。物言わぬ草木と一緒になりたくない。志の人・頼山陽を人は天才というが、本人はあくまで努力の人であると認識していたのである。

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