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「名言との対話」7月9日。清水幾太郎「私たちが読書や思索に苦労するのは、転向するためではないでしょうか。また、一所懸命に勉強していれば、何時かは必ず転向するに決っています」

清水 幾太郎 (しみず いくたろう、 1907年 7月9日 - 1988年 8月10日 )は、 日本 の 社会学者 ・ 評論家

東京生まれ。東京大帝大文学部卒業後、同大学助手などを経て読売新聞社の論説委員となり、第2次世界大戦中は陸軍報道班員として健筆をふるう。

1946年から「二十世紀研究所」を主宰。戦後日本の民主化に対応するべく、知識人集団を組織する。 1949~69年にかけて学習院大学教授をつとめる。学習院大学の定年は70歳だったが、退職は61歳だった。

この間、雑誌『世界』に論文「今こそ国会へ-請願のすすめ」を発表するなど、基地闘争や 60年安保闘争の先頭に立った。戦後知識人の最高峰として畏敬された。

安保以後は左翼陣営を離れ、「現代思想研究会」を発足させる。 1966年に著書『現代思想』でマルクス主義を批判し、その「転向」が論議を呼んだ。「批判」と「賛辞」の渦の中心に存在し、「雑誌『世界』からは掲載を断られている。1980年の『日本よ国家たれ-核の選択』 では戦後民主主義そのものを批判している。

著書135冊、翻訳書39冊、編纂監修43冊。合計執筆数は2582を数える。『清水幾太郎著作集』 19巻 。日本の戦前・戦後の思潮に大きな影響を与えた文化人である。

私は教育学者の竹内洋の愛読者であるが、その竹内が、『メディアと知識人--清水幾太郎の覇権と忘却』(中央公論社)という本を書いている。戦後のスター論客だった清水幾太郎を傍系インテリと定義し、「正系中の傍系」であると捉えて議論を展開していた。そして清水の変化は知識人界のヘゲモニーを掌握するための戦略ととらえている。いつもながらその分析とたくみな筆致にうならせられる。確かに面白くて一気に読み終えて高揚感が残った。

一方で清水幾太郎は文章論が有名であった。『論文の書き方』は、岩波新書のトップランクの売れ行きである。私は『図で考えれば文章がうまくなる』(PHP)を書いたとき、改めて読んだことがある。清水の主張は「文章は答えである」とし、問題を設定し、問題に答えるために文章を書くのだという。そして短文の部品を組み立てて、答えの全体像をつくりだす、それが文章を書くということだ主張して、今なお多くの読者を得ている。

この本の姉妹編として清水が書いた『日本語の技術 私の文章作法』(中公文庫)を読むと、思いつきを保存し、たくさんの思いつき同士の連絡をつけよ、自伝の試みは年齢に関係なくやるべきだ、などとある。この本の中で「転向」についての考えが記されていて目が留まった。

「私たちが読書や思索に苦労するのは、転向するためではないでしょうか。また、一所懸命に勉強していれば、何時かは必ず転向するに決っています」というのである。

人生の中で小高い地点に立つと、今までたどってきた道が一望できる。それを自伝や自分史として記すなかで、次の未来が見えてくる。だから人間が本当に成長するということは、転向の連続ではないかという主張である。時代、環境は変化する。そしてその中で生きる自分は成長していくのであって、それを転向を非難するのはあたらないということだろう。少し強弁をしている感もあるが、よくわかる気がする。


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