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「名言との対話」3月4日。成瀬仁蔵「聴くことを多くし、語ることを少なくし、行うことをに力を注ぐべし」

成瀬 仁蔵(なるせ じんぞう、1858年8月2日(安政5年6月23日) - 1919年(大正8年)3月4日)は、明治から大正のキリスト教牧師(プロテスタント)であり、日本近代における女子高等教育の開拓者の1人であり、日本女子大学日本女子大学校)の創設者として知られる。

29歳新潟女学校校長、36歳梅花女学校校長。42歳日本女子大学校初代校長。成瀬は女子教育一筋の人生を全うしている。

『女子教育』という著作によって多くの賛同者を得る。そして影響力のある大物をこの事業に引き入れていく。伊藤博文西園寺公望大隈重信渋沢栄一大倉喜八郎嘉納治五郎伊沢修二、、、、、。津田梅子の女子英学塾、吉岡弥生の東京女子医学校、成瀬の日本女子大と同時期に女子の高等教育機関が設立されている。前二つは小規模であったが、日本女子大は、1901年に家政、国文、英文の3学部と付属高校という陣容で合計288名の大規模な学校として出発している。

「何か天下のことをしたい」「何か、国家的の事をしなくてはならぬ」

「吾が天職、教員にあらず、牧師にあらず、社会改良者なり、女子教導者なり、父母の相談相手也、創業者なり。、、」

「我目的は吾天職を終わるにあり。吾天職は婦人を高め徳に進ませ力と知識練達を予へアイデアルホームを造らせ人情を敦し、、、、理想的社会を造るにあり」

護国寺日本女子大成瀬記念館でみた「女子高等教育構想」という成瀬のつくった図が興味深い。家政学科・医学科・宗教学科とあるが、中核は人格教育であった。時に成瀬は42歳。60歳で逝去するまで、女子教育に専念した。「人として、婦人として、国民として教育する。「リベラル・アーツ重視」
後継者であり同志であった麻生正蔵の履歴朗読はこの人の全生涯の生き方をあますところなく語っている。「常に唯光明を見希望を見、、暗黒を見ず絶望を見ず前路を見て退路を見ず。、、、」

中嶌邦「成瀬仁蔵」(吉川弘文館人物叢書)を読了。

  • 「何か天下のことをしたい」「何か、国家的の事をしなくてはならぬ」

  • 「吾が天職、教員にあらず、牧師にあらず、社会改良者なり、女子教導者なり、父母の相談相手也、創業者なり。、、」

  • 「我目的は吾天職を終わるにあり。吾天職は婦人を高め徳に進ませ力と知識練達を予へアイデアルホームを造らせ人情を敦し、、、、理想的社会を造るにあり」

行うことは少なく、語ること多く、聴くことはしない。そういう人にはなりたくないものだ。大学の創設者・成瀬仁蔵のこの言葉を肝に命じたい。

成瀬仁蔵を支援した広岡浅子は1919年1月に逝去している。10歳ほど年下の成瀬仁蔵もその年の3月に60歳で卒している。近代の女子教育を切り拓いた二人の志は次世代に引き継がれていく。

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