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「名言との対話」11月25日。ラーマ6世「チャクリー改革」

ラーマ6世タイ語: รัชกาลที่ ๖ 1881年1月1日‐1925年11月25日は、チャクリー王朝の第6代のシャム国王

タイのチャクリー王朝は、ラーマ4世からラーマ5世、そしてラーマ6世という3代の一連の近代化改革で、国内での内戦の危機、英仏による植民地化の危機を乗り越えた。アジアで独立を保ったのは日本とタイだけであった。この改革はチャクリー改革と呼ばれている。

ラーマ5世は1868年に15歳で即位し、有力な副王、摂政の死後に王族による本格的な改革に着手する。

奴隷解放。王室専用学校の拡充と義務教育の導入。王室子弟の海外留学。軍隊の近代化。鉄道・道路、電話・電信・郵便、水道などのインフラ整備。地方行政の仕組みをあらため中央集権体制への移行。不平等条約の改正。まさに日本の明治維新の対比できる改革であった。

その改革を引き継ぎ近代化を成功させたのが、ラーマ6世である。イギリスのオックスフォード大学で教育を受けたラーマ6世は、改革を断行している。

制度改革では、義務教育、姓氏放。仏暦、多妻制廃止など。インフラでは、発電所、水道、空港、橋などを整備した。英仏への多量の留学生の送り出し。タイ赤十字社の設置、ボーイスカウトの早期導入、タイ語の語彙の豊富化、、。外交では、第一次世界大戦に参加。国際連盟に加入。

ラーマ6世は文学者でもあった。200以上の文学作品を書き、英仏の書物の翻訳も行っている。劇作家でもあった。「東洋のユダヤ人」という論文を書き、従来の華人優遇策を改めた。

ラーマ6世の治世は1910年から1925年まで続き、5世の治世が始まった1868年から数えると半世紀以上にわたり改革が続いたことになる。次のラーマ7世時代には、財政の破綻によって立憲革命を招来することになる。

いずれにしても、タイは東南アジア諸国のように欧米の植民地にならずに、近代化を成し遂げたことは奇跡のような快挙であると感じた。王室がいまなお、国民の信頼と尊敬を得ているのはこうした事情によるのであろう。

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