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いろ衣都つむぎ ~目覚めること 覚えていること~ 

13、14歳の頃は、感受性がいまの10倍くらいはあり、いつもなにかに感動していた。自然の豊かな田舎で育ったので、空も美しく、山もたんぼも川も野草のそれぞれも、みな愛さずにはいられない存在だった。
その頃、わたしの内には満ち満ちてくる、大きなものがあったけれど、そういうものについて、人と話し合ったことはない。大きな力でわたしを満たし、幸せな気持ちでいっぱいにするのだ。
この満ちてくるものはなにだろうか。
わたしもそのさなかにいるときはわからなかった。
いま、その当時を振り返るとそれは、性の目覚めと言い切れはしないし、自我の芽生えとも言い切れるものでもない。
だいたい、自我なんて5、6歳でもうはっきりしているだろう。
わたしが感じていた内面のものは、生命がこの世に生まれる前に存在していたところからの波動だった気がする。
わたしは、そのころ、家の前の広場に立って、空を見あげることで、自分の上にある空を地球のまわりの膜であると感じ、宇宙の果てまで手が届きそうだと思った。宇宙の果て。そこはどうなっているのだろうと思った。
いまなら、こういうことはすぐにネットで調べられるのだろうと思うけれど、謎は謎のままでいいこともある。
謎にしておけば、想像力でいろいろと、ことを構築できる。
わたしは曇った白い空を見て、宇宙の果てにいる自分を想像した。
白くて清らかで、なにもない美しい空間にいると思った。
そんなふうに、内面を開いてくれたもの、それが、「神」でなくてなんだろう。
しかし、だれもそんなふうには言わないのだ。
わたしたちは、ほんとうに、内面について語らない。
思っていることや、気持ちでは、まだ浅い。もっと広い、もっと大きなものが内面にはある。わたしは、その、中学生だった頃から、あの空まで手が届くと感じた内面の力を、忘れることなく、いままで育んできた。
変な人だと思われることも多かった。周りと話が合わず、苦しい想いもした。
だけど、いま、わたしは自分の芯にたしかなものがあるのを感じるし、間違ってはいなかったと感じる。
わたしは23歳から、双極性障害を患い、いまも投薬治療中だが、このこともまた、自分を考える時間をたくさん持てた、という意味では、恵みだったいちめんもある。わたしは精神科に10回入院しているのだ。病気は軽くはない。
なのに、病気は、わたしの魂の健全さを奪わなかった。
とても不思議なことじゃないだろうか。
わたしはちゃんと、人を愛し、自分を愛し、神さまを愛した。
その原点は、中学生の頃の、あの目覚めにある。
宇宙にあるすべては美しかった。
いまもなお、すべての事象はいとしい。

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