ハッピーエンド=グッドエンド ではない、という話

せっかくnoteを始めたので、エッセイとして仕上げるには個人の感想が強すぎる、というものを記事にしてみます。何かと創作界隈では定期的に火の手が上がる「創作論」について、過去に触れていますが、今回はまた別の話。

これは2週間ほど前にたまたま流れてきたツイート。これがどんな界隈に、どれくらいの範囲まで届いたのかは分かりませんが、今回はこれについて記事を書きつつ、ツイートを読んだ時に感じたモヤモヤをうまく言語化できればな、と思っています。(モヤモヤとは言いましたが、批判しているというわけではありません。言いたいことがあるような、ないようなというどっちつかずな気持ちのことを指しています)

本題に入る前に。この方はシナリオライター向けのセミナーをやられているようで(プロフィールから)、この手のことを書かれるのも納得なのですが。だからといって普段、シナリオライターに教える立場であることは自己防衛の手段にはならないと思っています。有り体に言えば、それらしく言っていいことと悪いことがある、ということですね。こう言うと批判しているようにしか聞こえませんが、先に言うと完全に同意しているわけではないのは事実です。

おそらくモヤモヤの一因は、「内容以前に主語がでけえ」ですね。
主語を大きくして話すというのは本当に気をつけなければならない(自戒)ことで、私のように敏感に受け取る人間も出てくる可能性をはらんでいます。
創作論の記事でも書いたような気がしますが、創作に対する考え方をはじめ、創作界隈はどこを突っ込んでも人の数だけ意見があると私は思っています。どんな文庫本や教科書を見ても分かる「段落初めの一字下げ」も、Web小説の世界ではしない作者も一定数いるわけですから、物語の締め方となれば様々考え方があるのは自明です。にもかかわらず、「作者側の人間は」こうした方がいい、という書き方をするのはいかがなものか、と本能的に感じてしまったわけですね。とはいえこれは、内容うんぬんの話ではないので、中身を読んでから話せよ、という意見もごもっともだと思います。

では内容に触れます。
そもそも物語の締め方の分類として、私は「アンハッピーエンド」という言葉自体が初耳でした。以下は私はこういう意味だと解釈した、という話なので、本意でなければ申し訳ないのですが。まず「ハッピーエンド」「アンハッピーエンド」の二つと、「グッドエンド」「バッドエンド」の二つが別軸で、それをごっちゃにしている人が多いよ、と言いたいのでは?と私は考えています。「ハッピーエンド」「アンハッピーエンド」は文字通り、終わり方がハッピーかそうじゃないか。何をもってハッピーとするかは人によるでしょうが、大体の作品では黒幕を倒して平和を取り戻せばハッピー、主人公が死んでしまえばアンハッピー、になると思います。対して「グッドエンド」「バッドエンド」については、これはなるほどな、と思わされたのですが、物語の核となるセントラルクエスチョンが解決されたかどうかで判断するようです。そもそも判断基準が違うので、ハッピーエンド=グッドエンドとは限らないし、アンハッピーエンド=バッドエンドとも限らない。「ハッピーでグッドエンド」「ハッピーでバッドエンド」「アンハッピーでグッドエンド」「アンハッピーでバッドエンド」の4通りが存在することになります。

ここでセントラルクエスチョンとはなんぞや、という話です。感覚では何が言いたいのか何となく分かるのですが、言語化は難しいかもしれません。舞台となる世界や主人公が抱える謎や問題、というのが一番近いでしょうか。セントラルクエスチョンは作中で必ず解決されなければならない、という類のものではなく、作中の世界を俯瞰した時、その作品の核心となってくる点に過ぎないと私は考えます。

では、上で分類した4つのエンドについて、過去に私が完結させた長編18作がそれぞれどこに当てはまるか、考えてみます。一部R18作品は除きますがご了承ください。

A【ハッピーでグッドエンド】
「現世の鎮魂歌」「隣の変人さん」「サイハレ」「天使管理官」「幼馴染の彼女との、近くて遠い心の距離」「幼馴染の小悪魔が妹になりました。」「あの日あの時のAとB」「この虹がかった空の下なら」
B【ハッピーでバッドエンド】
「反転世界の救世主」
C【アンハッピーでグッドエンド】
「仮想都市の警察官」「絶望捜査官」「その季節は、そっと息をする。」
D【アンハッピーでバッドエンド】
「妖獣怪奇譚」「ぼくらの文明が終わるまで」「缶詰の中で生まれ育った僕たちは、およそ愛というものを知らない」

実は今ぱっと考えて分類したのですが、意外とばらけていて自分でもびっくりしています。とはいえ、AとDに二極化しているようにも見えますね。それもそのはず、私は物語の終わり方を「ハッピーエンド」「メリーバッドエンド」「バッドエンド」の3つに分類しており、考え方がかなり違っているからでしょう。
「メリーバッドエンド」はWikipediaによると、「受け手の解釈により、ハッピーエンドかバッドエンドかで意見が分かれるような結末のこと」だそう。私の作品では最終的に世界の脅威は解決される(=上で言うグッドエンド)が、主人公やその周りが死にまくる、あるいは闇堕ちするという展開をよく出すので、完全なハッピーエンド、バッドエンドは少なく、ほとんどがメリーバッドエンドだと考えています。より踏み込むと、それほど深刻な問題のない「隣の変人さん。」や「サイハレ」はバッドエンドにしようがなくハッピーエンドで、バッドエンドは主人公が死ぬ上に、世界の問題が何も解決されない「妖獣怪奇譚」「缶詰の中で生まれ育った僕たちは、およそ愛というものを知らない」の2つだけ。残りはすべてメリーバッドエンドになります。
ですので、従来の考え方で言うところの「ハッピーエンド」はAの一部、「バッドエンド」はDの一部で、「メリーバッドエンド」についてはA~Dの全てにかかっていることになります。セントラルクエスチョンに絞って見てみると、そもそもセントラルクエスチョンが非常に薄いか存在しないに近いのが「ハッピーエンド」、セントラルクエスチョンに進展がない、何の解決もされないのが「バッドエンド」、何かしらの進展があったり、解決されるものは「メリーバッドエンド」。やはりこれまでの自分がかなりざっくりと見ていたことが分かります。

この分類をしてみて特に驚いたのは、B【ハッピーでバッドエンド】に「反転世界の救世主」が入ったこと、そしてC、Dにどの作品を振り分けるか、いろいろ考えさせられたことですね。そもそもこの分類自体が新しい視点だったので、そういう意味では全部驚きなのですが。

ハッピーなのにバッドエンド、と言いたくなるほど直感に反した表現なのですが、「反転世界の救世主」は結局世界を滅ぼそうとする人物の脅威から逃れるため、その人だけを旧世界に置いていき全員で新しい世界に移り住んで終了、という展開。元凶がいなくなったのでセントラルクエスチョン「いかにして反転世界を守るか?」は解決されたようにも見えますが、元の世界は結局滅亡しているので根本的な解決にはなっていません。少なくとも作者である私はそう考えています。

C、Dの振り分け方については、やるたびに変わるのではないか、とすら思います。というのも、アンハッピーエンドの時点で主人公や周りの人間の死、あるいは闇堕ちが登場するのですが、それが結果として救済になる場合もあるからです。
「仮想都市の警察官」は東京を虚構化させた張本人を倒し、逮捕させ、さらに虚構化に伴い死んだ数百万人も復活して幕引きとなりました。しかしヒロインの双子の姉は虚構世界でしか存在できず、現実に戻った代償に帰らぬ人となっています。つまりセントラルクエスチョン「虚構世界の闇を暴き、世界を平和にするには?」に対して一つの答えを出しています。
ただ、「絶望捜査官」は、絶望を排除する側であった主人公が父親に見捨てられ、壮絶な拷問を受けた末に闇堕ち、絶望を抱く側の人間になってしまいます。その後姉とともに希望を探し、絶望に怯える都市を解放するための旅に出るところで終わります。セントラルクエスチョンも後から考えると難しく、「絶望に怯える都市を解放できるのか?」という問いには全く答えていません。一方、「絶望の中から家族愛をもって手を差し伸べる姉との和解」を中心に据えるならば、グッドエンド扱いになります。
「ぼくらの文明が終わるまで」は、人間側との意思の食い違いにより、人類を滅ぼすことを部下たちに命令してしまった宇宙人の主人公が葛藤しつつ、最後は人間の文明を残すため、別の星へ向かおうとします。そこで事故に遭い、並行世界へ流れ着き、その世界で今ある人間の文明を守ることが使命だと感じるところで終わります。「反転世界の救世主」と同じく、元の世界で人間が滅亡している点で、「果たして人間を救うことはできるのか?」という問いには全く答えていないことになりますが、「元の世界の記憶と文明を引き継ぐ存在が、結果として別世界で生き延びられた」ことにフォーカスするならば、グッドエンドであるとも言えるかもしれません。作者ですら分類に迷うくらいですから、読者によってはさらに解釈が分かれるかもしれません。ただ、そういう議論が起こるのであれば、むしろ歓迎という見方もありますが。

セントラルクエスチョンをどこに設定するか。そしてそれをどのように解決するか、あるいはそもそも解決させるのかさせないのか。その視点は間違いなく私にとって新鮮でしたし、大事な考え方ではあるなと思います。ただ、人によって解釈が分かれるような、疑問を投げかけるような作品を綴りたい、というのも作者・奈良ひさぎとしての希望なので、「セントラルクエスチョンが云々」という見方に囚われすぎると、作品が単純化しすぎてかえって自分らしさを失ってしまうのでは、という恐怖もあります。あとはやっぱりツイートの「主語がでけえ」問題もあります。

歳をとると思想が凝り固まってきて、他人の意見を受け入れにくくなる恐ろしさがあります。かの一件を通じて、自分もその片鱗が見え始めているな、と感じました。老害への第一歩ですね。そこには気をつけつつ、あくまでセントラルクエスチョンに対する捉え方を、一つのインプットとして扱って、今後の作品に活かすくらいが、ちょうどいいのかなと感じました。あとは、日々の発言やツイートも主語がでかくなりすぎないように注意することですね。

ということで、ここまでお読みいただきありがとうございます。議論になるようなならないような、独り言をこれからもこんな感じで発信していきたいなと思っていますので、また機会がありましたらよろしくお願いします。


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