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2024 春 静岡 その3

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 静岡に行った最大の目的は展覧会をみることにある。といっても、県立美術館じゃない。ひばりBOOKSという本屋さんで開催される、井出静佳さんというイラストレーターの個展です。少しばかり自分も協力させてもらったので、結局どんな様子になったのか気になった。(この理由は本当だけれど、そういう口実によっかかって、行ったことのない場所をふらりと訪ねることの魅力だって強い。)

 静岡旅行の初日にも会場には挨拶をしにいったし、展覧会もそのときに一度鑑賞した。そして静岡滞在三日目に再訪した。この日はイベントがあるし、作家本人もくる。

 作家の井出さんとは、昔アルバイトで一緒になった間柄である。冬場だけの短期の労働とはいえ、何年もやっていて、そのたびに一緒になっていた。そのころのこと。仕事のヒマな時間に、部署全員で写真を撮った。映っている人の顔を自動的に認識して、表情を変えたりゆがませたりする写真加工の機能で遊ぶために撮ったんだが、顔を狂わせるエフェクトを一番極端にかけたところ、なぜか井出さんの顔だけ顔として認識されておらず、ほかのみんなが超気色悪い変貌をとげているなか、井出さんだけいつもの井出さんの顔のままだったので大笑いして、それをプリントアウトして机に貼っていたものだった。
 さて冬場で短期集中となると、インフルエンザが大敵になる。仕事中に違和感を少しでも覚えたら、すぐ早退して検査しにいくことが徹底されていた。Kさんが喉と頭に熱を感じて早退し、夕方に「やっぱインフルだった」と連絡をよこした。その日Kさんが食べていたクッキー缶には、「インフルいり」と書かれた付箋が貼られ、労働期間が終わるまでそのままにされていた。捨てろよ。
 毎年、最後の日には打ち上げがあって、強制ではないのだけどドレスコードが設けられる。や、コスプレのテーマが与えられる、と説明するほうが正しいかもしれない。「ゆめかわいい(彩度の高い色やファンタジックなモチーフの世界を指す。たとえばサンリオ的な世界)」とか「学校生活」とか、「スターウォーズ」とか、年によって単語の種類は全然違う。ある年のテーマは「暴走族・ヤンキー」だった。ぼくはそういうのに本気になって取り組むほうでもないが、冷笑するのはかえってイタくてダサいし、参加したほうが楽しいのも知っているので、無理ない範囲で応えようと、一番くたくたの部屋着とジャージを着、どれもシンプルなピアスとブレスレッドとネックレスをつけ、カチューシャで前髪をあげてとめて、財布だけいれたドン・キホーテの黄色いビニール袋を片手に参加した。深夜のドンキの前にいるヤンキーをイメージしたわけだ。たまたま井出さんも、同じ設定で挑んできた。なので、まるで事前に示し合わせたようなヤンキーカップルが仕上がった。別会計でドンキに行ったカップル。

 彼女はイラストレーターなので、自分ひとりで描いた作品だけじゃなく、誰かほかの人や企業からのオーダーに沿った絵もいっぱい描いている。そういう仕事をしている人だから、お店屋さんでの展覧会には納得感がある。
 ひばりBOOKSでの個展開催決定後、連絡をくれた。展覧会のタイトルの命名と、展覧会全体のひとつの軸ともなるテキストの執筆を誘ってくれたのだ。「挿絵もやれますよ」というアピールって側面もあるだろうが、それよりも根底に、僕の仕事に対して少しは持ってくれている信頼の証拠のようにも思われて、うれしかった。

静岡の街並


 静岡出身の石垣くんが主催して発刊されているBEACONという雑誌に創刊号から小説を書かせてもらっているが、ひばりBOOKSでもこの雑誌の取り扱いがある。それだけじゃなく、BEACON発刊のトークイベントが開催されたこともあり、そういう点では雑誌とゆかりのあるお店でもある。
 ある日井出さんが、いつものようにひばりBOOKSに遊びにきたとき、たまたま手に取ったBEACONで僕の名前を目にして連絡をくれたことがあった。そんな縁もあり、井出さんが、自分の展示に、ほかの人との関係を組み込もうとたくらんだとき、私のことを思ってくれたらしい。ありがとう。

第3号 書影


「来年の春に、静岡で展示をするんですけど、文章を書いてもらえませんか。それから、展示のタイトルもつけてもらえませんか」
 井出さんから連絡があったのは、去年の夏ごろだった。話しかけてくれたのがまずうれしいし、話の内容もわくわくするし、一も二もなく「ありがとうございますよろしくお願いします」と返答したのだけど、返答してから、困った。だってそんなことしたことない。どうすればいいかわからない。
 展覧会に出す絵はまだ描いてすらいない。どんな展示にするのかもはっきりしていない。そんな状況で、展示タイトルを考えろだなんて無茶である。軸になるテキストを書けだなんて無謀である。(だからおもしろいんだけどね)んでもってして、あくまで井出さんの展示だから、まず僕が好き勝手に書いて渡して「これに対応するような展覧会にしなさい」と振り回すのは違う。

 そこで、これから描いていきたい絵がどんな感じのものなのか、言葉を尽くして教えてもらった。たとえば、「色としては、青や黒をたくさん使いたい」とか、「音楽でいうと、Radioheadとか青葉市子みたいなイメージ」とか。それがすごいわかりやすかったし、自分のなかでもイメージを膨らませるのに役立ったから、さすが伝え方がうまいな、と感心したのだけど、しかしどうしても引っ掛かるポイントがひとつだけあった。想定しているモチーフについての言及がそれだ。「かっこいい動物が描きたいです。犬とか馬とか」と伝えられたのだ。

 だって、どの動物がかっこいいかなんて、主観じゃんか。「犬とか馬を描きたいです」とか、「犬とか馬をかっこよく描きたいです」とか言われるならわかる。けど、「かっこいい動物を描きたい」は、これは非常に力強い。<犬や馬がかっこいいのなんて、当たり前でしょ?> 頭の芯からそう信じきっているのだ。自分の感覚のいちばん根っこ、基盤にある価値観だから、説明の対象として意識できない。かっこよさをプレゼンする必要性さえ思いつかない。つまり井出さんにとっての犬や馬は、それだけ徹底的にかっこよさを、つまり魅力を、信じぬかれている。愛しぬかれている。そんな人に描かれる犬や馬は、どれだけ幸せだろうか。

 森の中で生き物の気配を感じているような文章を、物語調のものからそうでないものまで、5,6本書いた。読んでもらって、ひとつを選んでもらい、それをさらにブラッシュアップしつつ、展覧会のタイトルを考えた。気配や予感といった、人が把握しうる範囲の内側と外側を行き来する未知のものに思いを傾けるスリルとロマンを目指して、「見えないもののなつかしさ」という命名をさせてもらって、それがどんな展覧会に結実するのか、楽しみに、かつてBEACONのイベントも開催されたひばりBOOKSへ。

展示会場


 この日のイベントは、中村圭南子さんの弾き語りライブで、はっぴいえんどの「しんしんしん」なんかも交えつつ土台というか、雰囲気を立ててから、ご自身のオリジナル楽曲を届けてくれる。茹でて冷まして味噌をつけただけの野菜のおいしさを、テレビもラジオもなにもつけずに、嚙む回数を数える丁寧さで点検するような、かわいくてせつない時間。なんかすぐ終わっちゃったな。あっという間だった。

 イベントが終わって店をでた。曇り空の下、商店と住宅街がまじりあった閑静なエリアを縫うようにぶらつく。宿まで戻るが、すぐに出、ふたたびひばりBOOKSにむかう。展覧会のクローズ時間(というか本屋の閉店時間)めがけて再々訪店し、井出さんや中村さんと合流、メキシコ料理のお店へ行く。

 井出さんと中村さんとも昔から仲のいい人、展覧会会場ですでにちょっと話をした人ふたりがやってくる。ライブハウス友達という関係らしい。なにせ僕以外の四人は昔からの友人だし、だから共通の話題はたくさんあるのに、どこか僕に気を遣ってくれている。申し訳なさを嚙み締めつつ、しかし表には出さないように耳をこらしていると、四人全員、卑屈である。「おれらは虫だから」「おまえはそういう虫だよな」「まあ虫みたいなもんだし」「虫だもんで、しょうがないよね」「へんな虫だね、おまえは」とにかく自分も含め、誰のことも虫あつかいして、不敵に笑い、オフビートなトーンのままで「どうせ私なんか」的なオチの話を繰り出していく。僕の頭のなかに出てくるのは一番は「野口さん」そして野口さんをはじめとした、静岡出身さくらももこの代表作のクラスメイトたち。君は卑怯だね、どうせあたしゃあノーテンキだよ、こんなこと言えやしないよ。ちびまる子的なフレーズが頭の中を飛び交う。

 静岡から帰ったあと、たびたび話し相手になってもらっている、国分寺の古本屋に静岡の思い出を話したら、たしかに静岡にはなにか、ゆるいボケをエンドレスで重ねあい続ける空気感があるよね、と同意してくれた。静岡出身ナンセンス代表の電気グルーヴのプロモーションビデオを引き合いに出す。ずっとゆるゆるズレていく。



 店主は、ご自身の地元でもある埼玉を「めくってもなにもない町」だと称する。「町をめくる」という発想に僕は魅力を感じている。「めくった先になにか本質がある。いま目にしているものはあくまで表層である」という感性が前提としてあるんだろう。この感性をご本人の生まれ育ちの時代や地域のせいにすることは可能だが、しかし、言葉そのものの特質に結びつけることも、同等の強さで、可能である。
 生まれ育った地域に人の印象を閉じ込めて、ステレオタイプに短絡させ、断定し分類する暴力は行使したくない。けれども一方で、ある程度はやはり、生まれ育ちの土地の性質(言葉遣いや気候、食べ物の性質や交通の便利など)によってメンタリティが方向づけられるものだとも思う。思うという以上に、確信していると言っていい。なんだかんだ、場所由来のメンタリティを帯びるのが生き物として自然である。誰もいつも、ローカルな存在でしかいられない。
 店主の語る「静岡の人」は、話すとやわらかいし、穏やかなのに、車の運転は荒い。これが、「めくったらおもしろい町だという確信」を強く暗示しているというのだ。

 メキシコ料理屋で飲み食いしてから宿までの数キロ、自称は虫の人間が運転する車で送ってもらった。速度の強い車窓に眺められる店なんかにいちいち、どういう場所、どのような性質で、どのような来歴で、どのような人が集まる場所で、というのが紹介される。どれも具体的である。「おれなんてなんもないですから、もうおしまい。虫、ただの虫」と自称する人とは思えない情報量と活力なんである。「静岡駅のまわりなんてほとんどこないから、なんにもわからないです。なにも知らない」そう宣言していたはずなのに、実際とても詳しい。テストの朝、教室で「やべえ全然勉強してねえよ」とけらけら笑っておいて、どの科目でも八割は切らないようなやつと同じなんじゃないのか。


街並



 翌朝、そこそこ早い時間に新幹線に乗る。けっこう混んでいる。後ろの座席にやばいやつがいて、こう、二席の列を占領、横にひろがって座っていて、爆音でゲームをしていて、通路にまで人の立つ混みようのなかそんな示威態度でいる。トイレに行きたくなったらどうするんだろう。品川駅で降りて、在来線で数駅移動、サイゼリアの開店を待って、昼過ぎに退店、デッサン教室にいき、講師の仕事をする。デッサンが特別できるわけでもないし、体系的に学んだ覚えもないので、センセイとして振る舞うことについて、いつまでたっても、嘘をついているような気分がぬぐえない。しかしずるいことは大好きだから、罪悪感は全然ない。

 2時間のレッスンをふたコマ終えて、その足で上野にむかった。静岡も東京も、ずっと弱い雨が降っている。とあるマンションに立ち入った。クローズドな映画上映会でかかるのは、ゴダールの「アワーミュージック」、イスラエルとパレスチナの対立が描出された作品だった。正直とても難しい。眠い。しかし人と映画を見て、それからそのことについて話をするのはうれしい。「国家の夢はひとりのものだが、個人の夢はふたりのものだ」というようなセリフがあった。ひとりの権力者によって構想され、夢想される国家と、ひとりの人が憧れる、ふたりきりの世界とを並べると、後者はいかにもロマンチックにきこえるけれど、自分の都合のいいかたちに他者を歪めている点ではまったく同じである。誰の夢であれ、夢はなにかを奪い、圧迫する。
 ほかのみんなが根津駅にむかい、私はひとり上野駅にむかう。細かい冷たい雨だった。翌日は月曜日。また労働の日々である。(いや、今日もしたけど)

 月曜日の出来事をひとつだけ。
 井出さんと出会うきっかけでもあった冬だけのアルバイトで知り合った、また別の友人がいる。彼女から、「全然知らない人と、お互いの日記を送りあうだけの関係になりたいって言ってる子がいるんですけど、どうですか」と話しかけられて、全然知らない人と、お互いの日記を送りあうだけの関係になった。月曜に紹介されて、翌火曜日、3月の26日から、毎日、日記を送りあい続けている。交換日記ではなくて、お互いの日記を送りあっている。相手が誰かはわからない。もう1カ月半ほど経った。


(おしまい)


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