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【大乗仏教】唯識派 三性説⑥

三性説の最後に、世親(ヴァスバンドゥ)の三性説を見ていきたいと思います。世親は『唯識二十論』等において、表象主義的な唯識論を展開していたため、おそらく無著(アサンガ)と同じく有形象唯識論側な唯識観を持っていたと思われます。

世親(ヴァスバンドゥ)の『三性論』より:
・妄想されたもの(遍計所執)、他によるもの(依他起)、および完全に成就されたもの(円成実)、まさしくこれら三つの自性がある。それは剛毅なる人々(菩薩)にとって学問の対象としてきわめて深いものといわれる。
・(何かの認識において)あらわれるもの、それが「他によるもの」であり、いかにあらわれるか(という様態)が、「妄想されたもの」である。(前者は、他の)原因にもとづいて起るから(他によるもの)であり、(後者は)分別のみとしてあるから(妄想されたもの)である。
・そのあらわれる主体(依他起性)にとって、かれのあらわれた様態(遍計所執性)が、常に(全く)存在しなくなった状態、これが「完全に成就されたもの」(円成実性)であると知るべきである。それは(もともと)変化するという性質がないものだからである。

依他起にとって、遍計所執がなくなった状態が円成実であると世親(ヴァスバンドゥ)は考えているため、この点は無著(アサンガ)の三性の解釈と同じであることが分かります。

・遍計所執性(妄想されたもの)
 =認識において、現れるものが如何に現れるかという様態
・依他起性(他によるもの)
 =認識において、現れるもの(現れる主体)
・円成実性(完全に成就されたもの)
 =現れるものとって、かの現れた様態が全く存在しなくなった状態
 =変化するという性質がないもの

世親の『三性論』より:
・その場合、何があらわれるのか。真実ならざる分別(依他起性)があらわれるのである。いかなる様態であらわれるのか。主観と客観との二つのものとしてあらわれるのである。
・それ(真実ならざる分別)に実在性がないとはどういうことか。それ(主観・客観の二つもの、遍計所執性)として(実在するのではないこと)である。
・そのことはまた、かれ(真実ならざる分別)の本来の在り方(法性)、すなわち二つのもの(遍計所執性)がないという(法性)に他ならない。

・遍計所執性(主観と客観との二つのもの)
 =本体として実在性がある主観と客観との二つのもの
・依他起性(真実ならざる分別)
 =主観と客観との二つのものとして実在しないもの
・円成実性(完全に成就されたもの)
 =真実ならざる分別の本来の在り方=法性=二つのものの無

世親の『三性論』より:
・ここにいう「真実ならざる分別」とは何か。心である。なんとなれば、それ(心)はそれが分別されたり、対象を分別したりするが、そのようには(客体としても主体としても心は)決して実在しないから、(これが真実ならざる分別、非実在の分別といわれるの)である。
・その心は、因であることと果であることとによって、二種に考えれる。即ち、一つ阿頼耶識と名付けれる識であり、二は起っている識(転識)と名付けれる七種のものである。
・諸々の汚染の種子となる(過去の行為の)習慣性(習気)が積み重なっているから、心というのであるが、最初のもの(即ち、阿頼耶識)は(その意味において)心である。それに対して、第二のもの(即ち、起こっている識)は種々の形相をもって起こるから、(心というの)である。
・要約していえば、この虚妄なる分別は、次の三種として考えられる。即ち、異熟的なものと、また原因的なものと、さらに顕現的なものとである。その第一のものは根本識である。なんとなれば、その本性が異熟だからである。それ以外の二者は現に起って働いている識(転識)である。見られるものと見るものとの認識として働いているからである。

依他起=真実ならざる分別(虚妄なる分別)とは心、即ち阿頼耶識と七転識(末那識・六識)を指します。この点は弥勒や無著と同じですね。

・異熟的なもの=阿頼耶識=根本識
・原因的なもの=末那識=転識
・顕現的なもの=六識=転識

・転識の相分(所取)=見られるもの
・転識の見分(能取)=見るもの

世親の『三性論』より:
・言語的表示は、妄想されたもの(遍計所執)の本質であり、言語的に表示する主体が、他のもの(依他起性)の本質であり、言語的表示の除去されていることが、もう一つの他の自性(完全に成就されたもの、円成実性)であると考えられる。

・ものの真実が理解されるとき、三つの相において順次に遍く知ること、断ずること、得ることが同時にあると考えられる。ここに(妄想されたものを)遍く知るとは、(執着された主観・客観の二者を)見ないことであり、(他に依るものを)断ずるとは(その二者が)あらわれ出ないことであると言われる。それに対して、(成就されたものを)得るとは、二ならざるものとして見ることであり、またそれは覚りの直証である。
・(妄想された)二を見ないことによって(他に依るものとしての)二の形相は消滅する。それが消滅することによって成就されたものが二の非存在として理解される。ただ、心のみと見ることによって知の対象の実在を見ないということがある。知の対象を見ないことによっては、心の実在もまた見ないこととなるであろう。主観、客観、あるいは心と対象の両者を見ないことによって法界が見られるのである。

・遍計所執性(主観と客観との二つのもの)
 =言語的表示(本体としての妄想されたもの)
 =遍く知るべきもの
 =遍く知るとは執着された(本体としての)主観・客観を見ないこと

・依他起性(心=阿頼耶識と七転識)
 =言語的に表示する主体(本体を妄想するもの)
 =断ずべきもの
 =断ずるとは心の中に二つのものが現れないこと

・円成実性(法性・法界=二つのものの無)
 =言語的表示の除去されていること
 =得るべきもの
 =得るとは二つのものの無と見ること

唯識派が認識論的な見解によって二派に分けれた経路は以下のようではないかと筆者は考えています。
 ▼無形象唯識派:弥勒 →(世親)→→ 徳慧 → 安慧 →
           ↓
 ▼有形象唯識派:無著 → 世親 →→ 陳那 → 護法 →

「仏教認識論」は中観派と唯識派の教えが一つの修行体系として統合していく過程で重要になっていきます。