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【明清交代人物録】フランソワ・カロン(その八)

フランソワ・カロン編の最後に、彼と少なからず共通点を持っている人物、フレデリック・コイエットと彼との関係について触れます。


日本の商館長と台湾の行政長官を歴任

まず、この2人の共通点の一つは、2人とも日本の商館長と台湾の行政長官を経てきているということです。カロン編その3で述べた様に、オランダ東インド会社の中では、この2つの商館は商品の販売先と調達元という相互補完的な関係にあり、バタヴィアの本部から見ると、東アジア担当グループといった位置づけになります。そして、日本の商館に勤務した後に台湾の行政長官として派遣されています。
カロンは20年という長い間平戸のオランダ商館で勤務し、厨房係から商館長まで出世し、バタヴィアに戻り、その後台湾に派遣されています。
コイエットは、長崎時代のオランダ商館に勤務のため、一年の在日期間しかありませんが、その後同じようにバタヴィアに戻り、タイオワン行政長官の勤務についています。彼の場合台湾での勤務の方が長いですね。

オランダ東インド会社では最後に不遇の時代を過ごしている

カロンの最後の時代については既に述べています。バタヴィアでの総督の一つ手前のポジションにまで登りましたが、最後はその職を追われてオランダに帰国、雌伏の15年を経てフランス東インド会社のリーダーとして活躍を始めます。

コイエットは、タイオワンオランダ商館の最後の行政長官となります。彼がここに勤務している8年間は、中国大陸で鄭家軍が清朝から追い落とされる期間に相当し、最後には鄭家軍によりタイオワンのオランダ勢は撤退を余儀なくされることになります。
この最後のタイオワンオランダ行政長官となってしまったコイエットは、バタヴィアに戻った後、軟禁状態に置かれ、このタイオワン撤退の責任を負わされることなります。最終的に、彼はその責からは免れ自由な身になるのですが、その期間、不遇の時を過ごすことになります。

配偶者が姉妹

上に述べたようなオランダ東インド会社の職員としての経歴に似たような点がある他に、この2人はプライベートな面でも共通点があります。それは、彼らの奥さん2人が姉妹であるということです。フランソワ・カロンの配偶者はコンスタンチヤ・バウデーン、その姉がスザンヌ・パウデーンで、フレデリック・コイエットの配偶者となっています。

バタヴィアがオランダ東インド会社の本部であったわけですが、ここに住むオランダ人に女性はごく少数だったそうです。大部分が男性のみというバタヴィアのオランダ人の社会の中で、女性はとてもチヤホヤされたそうです。誰でもすぐに人気者になり、引く手数多だったそうです。
そんな中でも、フランソワ・カロンがオランダで婚約しバタヴィアに連れてきたコンスタンチヤとその姉のスザンヌは、その美しさと貴族的な佇まいでバタヴィアのオランダ人社交界の花になったそうです。

この様に奥さん同士が姉妹であるからには、彼ら2人も少なからず親しい関係にあったのであろうと想像できます。
カロンが連れてきた婚約者コンスタンチヤの姉が、コイエットの妻になっている。そうであれば、この姉スザンヌをコイエットに引き合わせたのはカロンでしょう。自らの友人で、同じ会社で話の合う、自分と同じ様な経歴を踏んでいる後輩を、スザンヌに紹介した。カロンとコイエットはその様な親しい関係であったと想像できます。

コイエットはスウェーデンの出身者

フレデリック・コイエットのことを調べて分かったことがあります。それは、彼がオランダ人ではなく、スウェーデンから来ている外国人であるということです。
コイエットのことについては、非常に詳しいネットに公開されている資料があります。これはスウェーデンの研究者がコイエットのことについて調べた論文を日本語に訳したものです。この資料を読んで、スウェーデンとしては、江戸時代の初期にスウェーデンと日本の関係を築いた偉人としてコイエットのことを評価しているということを知りました。

ここからは想像ですが、タイオワン商館最後の時期にスウェーデン人であるコイエットが行政長官であったのは、彼がババを引かされたのではないかと考えています。
この台湾の拠点タイオワン商館は危ない状態であるという報告をコイエットは何度もバタヴィアに対して行っています。それに対してのバタヴィア本部の対応は、表面上対応している様に見えますが、実質的な援助はあまり行われていません。援護のための艦隊を送ってもいますが、沖合で遊弋した後にタイオワンには上陸しないといったことも起こっています。これら、タイオワン商館を見殺しにする様な対応が行われているのには、そもそも、バタヴィアはタイオワンを救うつもりはなかったのではないかと疑っています。これはオランダ東インド会社全体にとって、タイオワンの重要度はそれほどでもなかったのではないかという想像です。少なくとも、限られた人的物理的資源を何処に投入するかと考えた場合に,この組織にとって先優先で対応すべきは台湾ではなかった。それは、インドネシアの胡椒のマーケットを牛耳ること。インドネシアのオランダ植民地は、第二次世界大戦の終わる1945年まで続いています。これがこの組織にとっての、第一の優先順位になるでしょう。
そう考えると、他の場所に戦力を割くのは得策ではありません。そうした場合に、台湾/日本のマーケットに割く力は限定的にせざるを得ず、そこで鄭家軍と本格的な戦闘を繰り広げるのは何としても避けるべきです。
そして、その様な状況にあるタイオワン商館長にはスウェーデン人を担当させたのではないか。同じオランダ人に血を流させることはしなかった。これは、僕の勝手な想像です。

カロンは南ネーデルラント人

コイエットがスウェーデンという外国人であったのに比べて、カロンはオランダ人です。ただしオランダとは言っても、ブリュッセルの出身。この都市は現在はベルギーの首都です。
ネーデルラント"低地地方"と呼ばれる地域がスペインから独立抗争を繰り広げた際、現在のベネルクス三国は一つの地域でした。オランダ、ベルギー、ルクセンブルクは一つのネーデルラントとして、独立を目指しました。80年に渡る抗争を経て独立を勝ち取るのは1648年です。
しかし、ベルギーを含む地域は南ネーデルラントという、半独立、スペインとフランスからの影響を受ける地方のまま残ります。そして、この地域はカトリックの伝統を強く残し、後にベルギーとして独立するわけです。

カロンは、この様な南ネーデルラントの出身です。この時代の北ネーデルラントが、商業的に優越した力を持っていることを考えると、それらの主要都市、アムステルダム、ロッテルダムなどとは異なった背景を持った人物です。
また、平戸オランダ商館の時代、厨房係からそのキャリアをスタートさせていることからも、彼がオランダ東インド会社のメインストリームの人物ではなかったと想像できます。
また、彼がオランダ東インド会社から罷免される理由の一つは、バタヴィアのオランダ人社会からの反発があります。このことからも、彼はオランダ人社会の内部事情よりも、広い意味での会社の実務を優先していると考えられます。タイオワン事件の際にノイツを江戸幕府に差し出すという判断も、オランダ人同士の人間関係を優先していたら,実現できない判断であると考えられます。
そして、彼は最終的にはオランダ東インド会社を離れ、フランスに仕えることになります。これも、偶然ではなく、彼がオランダ人の仲間関係を超越した生き方をしているという面があるからでしょう。

東アジアの歴史に名を残した義兄弟

僕は、カロンとコイエットの関係はこの様な多くの共通点を持っており、とても興味深いと考えています。2人ともオランダ東インド会社のために、身を粉にして働きましたが、最後はこの組織に裏切られてしまいます。そして2人とも異なった形ではありますが、歴史に大きな名を刻みます。
この様な2人の人物が、一組の姉妹を妻に持っている義兄弟であるというのは、僕には偶然とは思えません。きっと同じ様な境遇を得て、オランダ東インド会社で懸命に生きてきた2人なのでしょう。

次回は、このフランソワ・カロンの義理の兄、フレデリック・コイエットを取り上げます。

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