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何のためでもないことをする時間

 幸せだと感じるのはどんな瞬間でしょうか?
 僕自身でいえば、3つほど挙げられます。

 1つは、パステル画を描いている時間。
 2つめに、家族と談笑している時間。
 3つめは、好きな本を読んでいる時間です。

 もちろん、他にも色々あります。散歩だって幸せを実感できる時間ですし、カメラで写真を撮っている瞬間もそうです。ただ挙げればキリがないので、大まかには前述した3つくらいだとして話を進めます。
 そうしたとき、ふと気づきます。
 すべてに共通しているのは、「無為性」だと。
 どういうことかといえば、「役に立つ」という視点がないのです。

 たとえばパステル画は、元々一人で黙々と描いていたものでした。今でこそ、少しはお小遣いの足しになっていますが、そもそも自分のために描き始めたもので、別に売れなくたって支障はないのです。
 家族と談笑はまさに「役に立つ」わけではありません。家族の近況を知るだとか、コミュニケーションが深まるだとか、そういう副次的に役に立つ効果はあると思いますが、少なくとも談笑している間は、そんなことに頭を使ってはいません。ただ楽しいから話している。それだけです。
 本を読むのも、同じです。ただ楽しいから、好きな本を読んでいる。それで何かを成し遂げたいわけでもありません。だから読む本にも偏りがあります。哲学系の本が好きだから、哲学の本を読みますし、時には自己啓発のような本を読むこともあります。自分の琴線に触れたものを、ただ「面白いから」読みたいだけなのです。

 こうした幸せな時間と、一方ではそうではない時間があります。
 やりたくもない仕事や自己投資のためだと我慢している時間。たとえば健康のため、痩せるためにウォーキングをしているとしたら、それが幸せだと感じる時間に挙げられるかは疑問です。
 それでも何か、すばらしいことを成し遂げているかのように、自己投資というものは語られます。本当にそれで幸せなのか、楽しいと思えるのか、ずっと引っかかっていました。
 僕がパステル画を描いたり、家族と談笑しているとき。そこには何も自己投資的な観点がありません。自分の幸せな時間とそうでない時間を区別したら、その事実が判然とします。
 その時間が有意義かどうかという視点は、まるで将来の準備のために我慢するかのような、苦痛を少なからず伴う行為になります。
 名著『限りある時間の使い方』の中で、オリバー・バークマンも同じことを言っていました。 

余暇を有意義に過ごそうとすると、余暇が義務みたいになってくる。
それでは仕事とまるで変わらない。

『限りある時間の使い方』オリバー・バークマン

 ずっと、気にかかっていた事実だったので、まさに膝を打つ気持ちでした。そうだよ、やっぱりね! という気分です。
 オリバー・バークマンはさらに思索を深めています。
 一見すると遊びに満ちているような行為、たとえばバックパッカーとして世界一周するとか、弾丸旅行で海外へ行くとか、やりたいことリストを消化するとかも、見方を変えればそれは「より豊かな経験をした自分」になるための手段だったりします。
 何かの目的のための手段となってしまったとき、それは真の余暇ではありえず、少なからず義務化します。「より豊かな自分」へとなるための、投資としての時間になってしまうのです。
 これは知識獲得や、自己投資としての読書に対する、僕自身の違和感を説明してくれていました。
 そこでふと思い出したのは、『スマホ時代の哲学』における谷川嘉浩さんの言葉です。

何かを作り、育てるのは、SNSに投稿して「いいね」をもらうためでも、ココナラやminneなどのウェブサービスで換金するためでもありません。ただそれ自体のためになされていることです。明日世界が滅ぶとか明日死ぬとかそういうことすら関係がないかのように〔…〕

『スマホ時代の哲学』谷川嘉浩

 谷川さんはシン・エヴァの加持リョウジを例に挙げて、〈趣味〉を創造的な活動と捉えていました。
 〈趣味〉は孤独と向き合い、それが自分自身との対話に繋がる。より良いものとしての孤独を勧める論理です。
 今回は少し道が逸れてしまう気がしますが、〈趣味〉が孤独と自己対話を生み、それが深い自己理解に繋がることは、幸せな時間だとそれを感じたことと無関係ではない気がします。
 要するに、孤独を感じるくらい、目的のための手段ではない、無為な行為こそが、僕らが「ああ幸せだなぁ」と感じる行為に繋がるのではないでしょうか。
 何かの役に立ち、誰かに感謝されることも、もちろん嬉しいことです。ですけど、それは感謝された瞬間の嬉しさだったりします。〈行為〉という時間そのものに喜びを見出すのは、やはり有意義であるかどうかとか、役に立つかどうかという視線を抜きにした、無為性のある時間にこそあるのではないでしょうか。

 ものすごくざっくりと言ってしまえば、何のためでもないことをする、ということです。

 以前、noteの記事で「にやにやする無言実行者」というものを書きましたが、それにも通ずる考えだと思います。
 無言実行とは、つまり他者の評価とは無縁でいることです。役に立つとか立たないとかの観点には立たず、ただ行為の中に楽しみがあり、ニヤニヤしてしまう。紆余曲折ありましたが、そこに繋がりました。

 あらためて言語化してみて、僕自身、もっと無為性のある活動を増やしたいな、と思うところです。しばらくカメラから遠ざかっていたのですが、誰にも見せないと考えると、より楽しくなりそうで、にやにやとし、外に出ていって数枚撮ってきました。
 ときには誰かに見せるのもいいでしょう。SNSで「いいね」をもらおうとアップするもいいと思います。でも基本的には「手段」ではなく、それ自体が目的である余暇を過ごす。幸せに生きていくためにも、そうした観点を大事にしたいです。

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