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桶狭間の戦いの考察12

今川義元が何故桶狭間の戦いで敗れたのかを考察する記事、第12回目。

◼️広忠の死と今川家の西三河平定

小豆坂の戦いに勝利した今川は、勝利に乗じて安城城も落城させて、織田信秀の庶長子信広を捕縛することに成功します。これによって西三河の情勢は完全に今川が優勢となります。

西三河奪取に野心を燃やす信秀にとって、これは痛恨の出来事でした。
小豆坂の敗戦、重要拠点の安城城の落城、庶長子信広が捕縛される等、完膚なきまでの敗戦でした。

この事態に至って信秀は今川と織田は和議を結び、松平広忠の嫡子竹千代と信広の人質交換を行いました。(これにより、信広は織田家中の立場を完全に失うことになります)

竹千代を失った信秀が西三河に勢力を伸ばすことは不可能で、これ以降、織田勢が西三河へ軍事行動を起こせなくなります。

西三河切り取りを画策し続けた信秀の野望は、この時に潰えることになりました。

織田方の侵攻を退けた西三河でしたが、混乱はまだまだ終わりません。

小豆坂の戦いからわずか半年後の1548年3月に、今度は松平広忠が亡くなります。

後に天下人になる徳川家康の影響からか、松平家周辺の出来事はかなり資料が残っていますが、広忠の死については、病死、暗殺、領内の一揆鎮圧に失敗して殺された等、様々に記載があります。

様々な死因があり、どの記載が事実を記しているかは分かりません。しかし広忠の死は、今川にとっては最も恩恵が大きかったのは確かです。
織田との人質交換で手に入れた竹千代を手元に置き、岡崎城には配下の者を派遣して西三河の地を収めることができるようになったからです。

これによって、先に手に入れていた東三河と合わせて、ついに今川は宗家吉良家が所有していた三河国を、実質の領土としてその版図に加えることに成功します。

こういう状況証拠を考えると、広忠の死は今川の手によるもの、と考えるのが妥当なのかもしれません。そして表向きは「病死」と発表する。話としては出来すぎですが、あり得ない話でもありません。

息子を奪われても忠義を貫いた広忠に対してあまりの仕打ちでは、と思いますが、資料によれば小豆坂の戦いの時期、広忠は織田方に下っていた、という記述もあったりします。

家康の天下統一があるので、松平家の逸話は色々美化されている部分があるので、本当のところはどうだったのかは分かりませんが、事実として、小豆坂の戦いで今川方に与したのであれば、織田に奪われた竹千代は殺されていてもおかしくないので、松平家も織田に抑えられていた、と考えるのが妥当なのかもしれません。

ともあれ松平広忠は死に、織田信秀は小豆坂の戦い以降は病に倒れて、とても軍事行動を起こせる状況にはありませんでした。

これにより、今川方は東へと向かいます。

狙いは先に北条に奪われた海東郡の奪還。

義元は、武田、として関東管領の上杉家と連携して北条勢へ圧力をかけ、北条包囲網を形成します。

今川家からすれば、西側の脅威は去った、と思ったでしょう。

しかし、その西で時代の麒麟児が歴史の表舞台に登場しようとしていたのです。

当時の彼は「三郎」と呼ばれていました。
もっとも幼名の吉法師の方が有名かもしれません。

織田信長、その人です。

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