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桶狭間の戦いの考察11

今川義元が何故桶狭間で破れたのかを考察する記事、第11回目。

今回は今川方が三河支配を確立させた小豆坂の戦いについて。

■決戦、小豆坂

今川は松平を助力する。その代わりに、広忠嫡子の竹千代を駿府に住まわせよ。

この条件を聞いた松平家に衝撃が走りました。

竹千代を駿府へ人質に出す、ということは名実ともに今川家の庇護を受けられると同時に、独立勢力ではなくなる、ということを意味していました。

しかし、この時の岡崎城は、西を完全に尾張勢に抑えられ、またその周辺も寝返るものが多く、落城は時間の問題でした。

弱みにつけこむような今川の「命令」。(ここに至ってはもう、この表現の方がしっくりくる)

松平勢を助力しながら実質的な三河の支配権を得る。これこそが義元の狙いであり、だからこそ、広忠が窮地に陥るまで一切動きませんでした。

切羽詰まった松平勢に、選択の余地はありません。広忠は嫡子竹千代を駿府に送るべく、東三河の有力国人の戸田氏に仲介を依頼します。

そして、もう一人、この情報を聞いて衝撃をうけた人物がいました。

織田信秀です。

岡崎城攻略まで後少し、というところまで来て、今川が動く、という情報。しかも広忠は嫡子を人質に差し出すという。

東三河は今川に従属しており、西三河も松平家を取り込めば、三河全域の支配権を確立できる。

更には、侵攻する尾張勢に対して、松平家を救う今川家という構図が成り立ち、非常に不利な立場に追いやられることなります。

追い詰めたつもりが、逆に自分たちが追い詰められていた。

臍を噛むと同時に、信秀は義元に対する認識を改めたかもしれません。

家督相続後、北条との争乱に端を発する国内の乱れ等、失策の多い若造というイメージが先行していたのかもしれませんが、一手一手が的確で、強かに追い詰めてくる。

ここに至って、広忠に追放された信孝の本国帰還の嘆願を突き放したのも、義元の深謀遠慮だったのかもしれません。

舌を巻きつつも、信秀もこのままで終わる男ではありませんでした。

何と東三河の戸田氏を調略して、駿府に向かうはずだった竹千代を奪い取ってみせたのです。

この辺りの動きは、まさに神業。

「器用な仁」の本領発揮といったところでしょうか。

竹千代を売った戸田氏に激怒した義元は、これを攻めて滅ぼします。

この隙に、竹千代を得た織田信秀は松平広忠に従属を迫りますが、広忠は首を縦に振るどころか、より今川義元への忠誠を明らかにして、尾張勢との戦いに明け暮れます。

恭順を示すどころか敵対的行動を続ける広忠に業を煮やした信秀は、天文17年(1548年)3月に岡崎城攻略のため、庶長子の織田信広を先鋒に安城城を進発。兵の数は4000。

それに義元も、太原雪斎を総大将にして対峙。こちらは兵10000。

両軍は三河国額田郡小豆坂で激突することになります。

坂の上に陣取り兵の数では圧倒的に有利な今川・松平勢に先鋒の信広隊は苦戦してじりじりと後退させられます。

しかし本陣付近まで後退した信広隊は、信秀の本隊と合流すると、一転して攻勢に出ます。

今川勢は10000ほどですが、松平勢は織田と比べても兵力が多くありませんでした。

下り坂の勢いをもって追撃していた松平勢は、俄に攻勢に出た織田勢に浮き足立ち、松平勢の先鋒の将が討ち取られて、崩れはじめます。

松平勢が崩れたことで、反撃に転じた織田勢は勢いに乗じて今川本陣まで迫るも、今度は今川勢の伏兵が織田勢に襲いかかります。

思わぬ伏兵に突き崩された織田勢は、安城城まで退却。信秀は信広に安城城の守備を任せて尾張へ帰還します。

今川勢は攻勢の手を緩めず、同年の11月には安城城を包囲。落城させて庶長子信広を捕縛することに成功します。

「小豆坂の戦い」と呼ばれるこの戦いは、今川勢の勝利に終わり、織田信秀の三河領国化という野望を完膚なきまでに打ち砕くことになります。

また、捕虜となった信広を利用して、人質交換することで竹千代の奪還にも成功し、駿府の膝元に置くことになります。

松平家を取り込みつつ、今川が三河の支配権を得る。

そんな矢先に、三河に更なる暗雲が立ち込めました。

小豆坂の戦い、安城城攻略からわずか半年後、松平広忠が死去したのです。

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