桶狭間の戦いの考察10
今川義元が何故桶狭間で破れたのかを考察する、第10回目。
今回は織田vs松平・今川という図式が出来上がる安城合戦について。
■西三河の支配権を奪い合う仁義なき戦い
岡崎城に帰還した松平広忠ですが、父清康の死後に起きた松平信定の総領家横領や、それに伴う一族の抗争・分裂により、松平家は以前のような力を保持できず、矢作川以西の西三河の維持が精一杯でした。
東三河には戸田氏をはじめ、有力な国人のほとんどが今川方へ恭順することになります。
松平家も清康一代でのし上がりましたが、基盤が磐石になる前に暗殺されてしまいました。この辺りは織田信長、豊臣秀吉、武田信玄等、強烈なカリスマ君主の死後と、その勢力の衰退を考えると、清康暗殺後の松平家が西三河の小大名となるのは当然の成り行きだったでしょう。
かくして、東三河の支配権と松平家への影響力を増した今川でしたが、それを苦々しく思う者がいました。尾張の織田信秀です。
清康暗殺後、妹婿の松平信定が三河で実権を握りかけましたが、広忠の帰還とそれを助力した今川勢により見事に失敗。
このまま、今川主導による三河の支配が続くかと思ったところ、松平家に綻びが見え始めます。
松平広忠により叔父信孝の追放です。
信孝は清康の弟で、広忠の岡崎城帰還に貢献した人物でしたが、自分の弟の領地を横領する等、専横が酷くなり、使者として駿府に向かった後、広忠により領地を取り上げられ追放されました。
知らせを聞いた信孝は、義元に領地の奪還と広忠への取りなしを願いますが、義元はまったく取り合いませんでした。このあたりは広忠と示し合わせていたのかもしれません。
これに怒った信孝は、尾張の織田信秀を頼ります。更には信孝が主導した尾張知多郡及び三河碧海郡の支配者水野信元との縁組も破談。(離縁)
松平一族の内部抗争をみて、好機到来とばかりに信秀は、松平信孝、水野信元を取り込んで西三河への侵攻を開始します。
狙うは矢作川の西岸、碧海台地にある安城城。
周辺を湿地と雑木林に囲まれた小城ですが、元々本城として碧海郡の松平氏の諸城を統率していました。岡崎城に本拠地が遷されても、尾張勢への前線基地として機能しています。
戦国時代の城は、本拠地となる本城と、それを囲むように要地に配された支城で構成されています。兵士や兵糧などの物資を分散配置して、本城と支城または支城同士が連携しあうことで侵攻してきた敵と戦うことになります。
そうした岡崎城を支える支城の、最も重要な拠点である安城城へ尾張勢は侵攻しました。
この城を奪われるわけにはいかない。松平勢は死力を尽くして戦いますが、この戦いに今川勢が加勢した記録はありません。(第一次小豆坂は時系列的に整合性が合わないので。。。)
奮戦した松平勢ですが、ついに安城城が落城します。広忠は、父清康ほど戦には強くありません。むしろ戦えば負けることが多く、このために安城城落城後に一族・重臣の離反が相次ぎます。
さらに尾張勢は信孝に、安城城の西北に大岡城(山崎城)を築かせます。湿地に囲まれた安城城ですが、この西北だけが湿地でなく兵の進退が容易で、すなわち唯一の弱点となっていました。さらには碧海台地の丘の上にあり、岡崎城まで視界を遮るものがない、という松平勢の動きが見渡せる場所でした。
なんで松平氏がここに城を築かなかったのか、というくらいの立地ですね。
尾張勢に急所を1ヶ所のみならず2ヶ所も押さえられ、進退極まった広忠は今川義元に助勢を頼みます。
織田と松平の戦いを見ながら、義元はこれまで不気味なまでに沈黙していました。しかしこれには明確な狙いがありました。
衰えたとはいえ、「松平」の名は三河を支配するには重要です。さらには今川勢が力で松平を押さえ込めば三河で反発を招くのは必定です。それを避けるためには松平から今川に助力を求めるという姿勢が必要でした。
こうすれば今川は、侵略者である織田に対して松平を救う三河の救世主という立場を明確にできます。
これこそが義元の狙いであり、三河の支配と松平氏を傘下に納める最も効果的な一手でした。
ここに到って、義元は広忠に助力する姿勢を明確にします。
そして、仕上げとばかりに義元は広忠に命じます。
「嫡子竹千代を駿府に住まわせよ」
万全を期したこの一手。
しかし、これが更なる混乱を三河に呼び込むことになろうとは、思いもよりませんでした。
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