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桶狭間の戦いの考察 14

今川義元が何故桶狭間で負けたのかを考察する記事、第14回目。今回は信長家督相続後の尾張・西三河の情勢について。

◼️信秀の死と、反弾正忠家勢力

信秀死後、尾張情勢は混沌の時を迎えます。

信秀は尾張南部の津島・熱田といった商業地区で得た財力を武器に主家の大和守家を凌ぐ勢力になりましたが、その財力をもってしても尾張一国を統一することはできませんでした。

織田宗家の織田大和守家はもちろん、尾張守護の斯波氏も未だ健在だったのです。

戦国時代では、力をもつ当主が亡くなると後継者争いが必ず起きています。
全国各地で権力欲しさに内乱と抗争が勃発して、時には他国の侵略や、国そのものが滅びるきっかけを作ってしまった事例もありました。

しかも信秀の後継者は「うつけ」と悪評が高い信長です。

今まで信秀に頭を抑えられていた勢力が、これを巻き返しの機会と考えることは想像に難くないでしょう。

まず信秀の死と前後して、今川が動きます。
前回でも触れましたが、尾張と西三河の国境にある鳴海城の城主山口教継を今川方へと寝返らせました。

小豆坂の敗戦後、信長は今川との同盟に反対していたので、今川との取次役だった山口が信長に対してあまりよい感情をもっていなかったことも一因かもしれません。

この寝返りはかなり以前から打ち合わせられていたものだったのでしょう。

その証拠に、山口は寝返りと同時に鳴海城の南に位置する大高城、鎌倉街道と大高道の分岐点にある沓掛城を調略します。さらに今川方の宿将岡部元信等を引き入れて織田勢と臨戦体制を整えました。

尾張でも織田本家筋の大和守信友が蜂起。
信長の同母弟の信行を「弾正忠家を継ぐのは信行がふさわしい」と教唆して、信長から離反させ、国内外で信長包囲網を形成します。

国内外の勢力に包囲された信長は圧倒的不利な状況に陥りましたが、この絶好の機会に、今川家が尾張に乱入することはありませんでした。

本来であれば、混乱に乗じて尾張の有力な国人衆や地侍たちを調略して、助力する形をとりながら徐々に今川支配の基盤を作り影響力を強めていくのは西三河でも用いた方式ですが、この時、今川家は動きたくても動けない状況にありました。

ひとつは信長が強すぎたこと。

山口と戦った赤塚の戦いでは痛み分けに終わりましたが、大和守信友、弟信行等、尾張国内での戦いは連戦連勝。
「うつけ」と罵っていた国人たちも、あまりの強さに信長陣営へ鞍替えする者も増えてきました。

また、山口教継は倍する兵力を有しながら信長と決着をつけず、赤塚の戦い後に捕虜の返還までする日和見行動をとったため、後に親子ともども駿河に召喚されて切腹させられます。

鳴海城には岡部元信が、大高城には鵜殿長照がそれぞれ城代となりますが、山口親子切腹直後は城内の元山口家臣には多少の混乱や動揺があったと思います。

そして、もうひとつは今川支配後の西三河の情勢が不安定だったことです。

この時期、信長は孤立無援のように思われる方は多いと思いますが、実際には国内外に味方がいました。

国内では父信秀の弟である織田信光。
国外の最大の勢力が岳父である美濃の齋藤道三。
西三河の加茂郡(現在の豊田市)を治めていた「十八松平」のひとつ大給松平家。

そして、対今川最大の勢力が、知多半島と西三河の一部を支配する豪族、水野氏でした。

現在の知多半島と衣浦湾付近を勢力として治め、緒川・刈谷に居城を持つ水野氏は、古くからこの地を治めており、今川・織田・松平とも無視できない勢力の持ち主でした。

小豆坂の戦い以前、水野家は織田家と同盟を組んでおり、両家の和睦以降は今川の勢力下におかれました。
もともと敵対勢力同士だったので今川家になじみがなく、今川家の西三河支配を苦々しく思っていたことでしょう。

そのため、信長から同盟の連絡がくると、今川方から離反して再び独立勢力となります。

水野氏が治めていた当時、衣浦湾は「衣ヶ浦」と呼ばれていて、現在よりも内陸まで入り江が入り込んでいました。(現在の大府市辺りまで海だったようです)

衣ヶ浦は天然の良港でも知られていて、水野氏はまず衣が浦の中間地点にある緒川の地に城を築き、そして緒川城から見てちょうど北東の対岸に刈谷城を築きました。(最初は緒川城を拠点として、刈谷城築城以降はこちらを本拠地にしています)

この刈谷城と緒川城の位置が問題でした。

刈谷城から東に向かうと知立城、安城城、そして岡崎城があります。その合計距離は30キロ弱。

緒川城から北西の大高城・鳴海城へは20キロ程度の距離。

戦国時代の一日の行軍距離は20キロ程度といわれているので、岡崎城と鳴海城もどちらとも1日~1日半くらいで到着できる計算になります。

今川勢が尾張国境で織田勢と戦う際に、水野氏から背後を襲われる可能性が出てきたのです。

また現在の豊田市付近を治めていた大給松平氏の離反も地味に痛く(豊田市は岡崎市のちょうど真上の位置)、これによって駿河・遠江から尾張国境の道を遮断され、鳴海・大高・沓掛城を織田・水野・大給松平の三方から包囲することに成功しています。

今川としては尾張に侵攻したくでもできない状況になったのです。

「天下布武」が強調されることも多いですが、共通の敵をもつ対外勢力を上手く取り込んで同盟を結んで相手の動きを止めるとか、こういう外交が案外上手いんですよね。ただ、同盟後の事後処理で色々と問題が発生するのですが。。。

大給松平氏は、勢力差を考えれば信長にとっては時間稼ぎ的な意味も含まれているでしょう。(山口離反の意趣返しとも)

水野氏は違います。彼らを味方につけることは、水野氏の勢力基盤や過去の織田・水野の同盟経緯も含めると、対今川の戦略として最善手を打ったといえるでしょう。

水野氏の離反により対尾張戦線の再構築に動かなければならくなった今川ですが、元々敵対勢力だったので、信長が同盟を破棄した段階でこの離反は想定済みだったと思います。

その証拠に、今川方の次の一手が早かった。

緒川城の北3キロの位置にある村木の地(現在の東浦町)に砦を築いたのです。

これにより緒川城の攻略拠点を作るだけでなく、水野氏のふたつの拠点である刈谷城と緒川城の連携を遮断することに成功しました。


衣が浦の沿岸に位置する緒川城と刈谷城は陸上・海上を問わず物資・兵力の連携が可能な、城同士がお互いを支えあう「支城ネットワーク」を構築していました。

この2城は、衣が浦を沿岸づたいに行軍すれば敵を挟み込めるし、兵糧等の重い物資は海上運送が可能です。

そのネットワークを破壊するための楔として、村木に砦を築いたのです。

緒川城の北に3キロほどの距離に砦を築くことで、陸上交通の遮断はもちろん海上交通の監視も容易になります。

これにより刈谷城、緒川城ともに孤立させることに成功し、特に衣ヶ浦の東に位置する刈谷城は知立城・岡崎城から近いことが禍して孤立無援の状況に陥ってしまいます。

窮地に陥った水野氏は信長に援軍要請、この時代でいうところの「後詰」を依頼します。


家督をついたばかりで尾張情勢も不安定な中ですが、信長が「後詰」を出さなければ、水野氏は今川へ降伏することになります。

戦国の時代、「後詰」がない状況であれば、相手に降伏しても恥ではなく、むしろ「後詰」を出せなかった側が名声を失うことになるのです。(後年の高天神城に「後詰」を出せなかった武田勝頼が良い例ですね)

水野氏は先代信秀以来の同盟相手で、今川に対する反発心から織田につきましたが、ここで「後詰」を出せなければ信頼関係はなくなり、二度と織田方として戦うことはありません。

尾張情勢が不安定でありながら、信長は「後詰」の兵を出すことになります。

しかし、まだ信長にとって、難題は数多く降りかかってくるのです。

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