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桶狭間の戦いの考察13

今川義元が何故桶狭間の戦いで敗れたのかを考察する記事、第13回目。

◼️織田弾正忠家のうつけもの

織田信長。
日本の歴史上で最も重要な人物のひとりで、日本人なら誰もがその名を知るを戦国の雄です。

織田信秀と正室の土田御前の間に生まれ、幼名は吉法師。
元服後の通称は三郎。

信秀には多くの子供がおり、信長の上にも側室との子供である信広がいましたが、先の小豆坂の戦いで今川の捕虜になり、織田家と今川家による西三河覇権争いから撤退する原因を作ってしまったため後継者争いから脱落しました。

こういった事情と、正室の長子ということもあり、信長が信秀の跡継ぎとなるわけなのですが、ご存知の通り、幼少期から少年期の信長は尾張どころか他国まで「うつけもの」として知られるほど、その奇行が目立っていました。

野盗のような服装で地侍の次男、三男を引き連れて街中を練り歩く等、おおよそ織田弾正忠家の世継ぎとは思えない行動を続け、世間の評判は最底といえるような状況でした。

また小豆坂の戦いに敗れ、今川と和議を結ぶ際にも、多くの者がやむを得ないと思っている中、織田家中で信長はひとりこれに強硬に反対していました。

状況を理解せず、己の思うがまま行動する。こんな男が当主になったら織田弾正忠家の行く末はどうなるのか。当時の常識から考えたら、多くの織田家臣が自分の未来を呪ったことでしょう。

当然、義元としても敵国である尾張領内の情勢を多くの間者に探らせていましたから、そういった情報を手に入れていたはずです。

信秀がいなければ織田弾正忠家は自壊する。

今川方からすれば、着々と尾張切り崩しの準備が進んでいる、そう思っていたでしょう。

この時代のほとんどの人の信長の評価は最低ランクだったのですが、しかしその信長を評価する人物が二人いました。

一人は織田信秀。

そしてもう一人は、信長の岳父である斎藤道三です。

戦国の世を強かに生き、その生涯はまさに悪辣非道ともいえる道三ですが、こと信長に対してだけは、まるで実の息子のように無償の愛を注ぎました。

何しろ信長が出陣する那古野城の守りを、道三配下の美濃勢が守るくらいです。
他国の、しかも多くの裏切りを重ねた梟雄の手勢が娘婿の城を守るなど、前代未聞の出来事でしたでしょう。(実際、信長以外は内心冷や冷やだったと思います)

信長はその生涯で多くの裏切りに遭い、その最期も配下の裏切りによるものでしたが、乱世の梟雄であるはずの道三だけは最期まで信長を裏切りませんでした。

そして1552年、信長の尾張での理解者である信秀がこの世を去ります。

いよいよ信長が織田弾正忠家の当主として世に出てきます。

信長が最初に行ったこと、それは今川との和議を破棄したこと、そして通称を三郎から上総介へと変えたことです。

上総介は官位の一つで、これは代々今川家の当主が通称として名乗っていたものでした。

信長は上総介を名乗ることにより、和議の破棄と合わせて今川家に対する対決姿勢を明確に打ち出します。

しかし、信秀の死後、これまで信秀に頭を押さえられていた織田大和守家や、信長の実弟信行等、多くの者たちが信長から離反することになります。

さらに尾張と西三河の国境付近では鳴海城城主の山口教継が鳴海、大高、沓掛の3つの城と共に今川へ寝返ります。

信秀時代に付き従っていた尾張・西三河国境付近の地侍たちも、今川へと誼を通じていくことになり、国内外から見放された織田弾正忠家の命運は風前の灯でした。

しかし、そんな信長の評価を一変させた、ある出来事が起こります。

1554年に尾張南部知多半島で起きた村木砦の戦いです。

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