ひろ

神奈川に生息する40代独身男の「なまけもの」です。日々思うことを徒然と書いていきます。

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最近の記事

桶狭間の戦いの考察 14

今川義元が何故桶狭間で負けたのかを考察する記事、第14回目。今回は信長家督相続後の尾張・西三河の情勢について。 ◼️信秀の死と、反弾正忠家勢力信秀死後、尾張情勢は混沌の時を迎えます。 信秀は尾張南部の津島・熱田といった商業地区で得た財力を武器に主家の大和守家を凌ぐ勢力になりましたが、その財力をもってしても尾張一国を統一することはできませんでした。 織田宗家の織田大和守家はもちろん、尾張守護の斯波氏も未だ健在だったのです。 戦国時代では、力をもつ当主が亡くなると後継者争

    • 桶狭間の戦いの考察13

      今川義元が何故桶狭間の戦いで敗れたのかを考察する記事、第13回目。 ◼️織田弾正忠家のうつけもの織田信長。 日本の歴史上で最も重要な人物のひとりで、日本人なら誰もがその名を知るを戦国の雄です。 織田信秀と正室の土田御前の間に生まれ、幼名は吉法師。 元服後の通称は三郎。 信秀には多くの子供がおり、信長の上にも側室との子供である信広がいましたが、先の小豆坂の戦いで今川の捕虜になり、織田家と今川家による西三河覇権争いから撤退する原因を作ってしまったため後継者争いから脱落しまし

      • 桶狭間の戦いの考察12

        今川義元が何故桶狭間の戦いで敗れたのかを考察する記事、第12回目。 ◼️広忠の死と今川家の西三河平定小豆坂の戦いに勝利した今川は、勝利に乗じて安城城も落城させて、織田信秀の庶長子信広を捕縛することに成功します。これによって西三河の情勢は完全に今川が優勢となります。 西三河奪取に野心を燃やす信秀にとって、これは痛恨の出来事でした。 小豆坂の敗戦、重要拠点の安城城の落城、庶長子信広が捕縛される等、完膚なきまでの敗戦でした。 この事態に至って信秀は今川と織田は和議を結び、松平

        • 桶狭間の戦いの考察11

          今川義元が何故桶狭間で破れたのかを考察する記事、第11回目。 今回は今川方が三河支配を確立させた小豆坂の戦いについて。 ■決戦、小豆坂今川は松平を助力する。その代わりに、広忠嫡子の竹千代を駿府に住まわせよ。 この条件を聞いた松平家に衝撃が走りました。 竹千代を駿府へ人質に出す、ということは名実ともに今川家の庇護を受けられると同時に、独立勢力ではなくなる、ということを意味していました。 しかし、この時の岡崎城は、西を完全に尾張勢に抑えられ、またその周辺も寝返るものが多

        桶狭間の戦いの考察 14

          桶狭間の戦いの考察10

          今川義元が何故桶狭間で破れたのかを考察する、第10回目。 今回は織田vs松平・今川という図式が出来上がる安城合戦について。 ■西三河の支配権を奪い合う仁義なき戦い岡崎城に帰還した松平広忠ですが、父清康の死後に起きた松平信定の総領家横領や、それに伴う一族の抗争・分裂により、松平家は以前のような力を保持できず、矢作川以西の西三河の維持が精一杯でした。 東三河には戸田氏をはじめ、有力な国人のほとんどが今川方へ恭順することになります。 松平家も清康一代でのし上がりましたが、基

          桶狭間の戦いの考察10

          桶狭間の戦いの考察9

          今川義元が桶狭間の戦いで何故破れたのかを考察する記事、第9回目。 今回から今川氏と織田氏による三河争奪戦を。 ■松平広忠、岡崎城に帰還松平清康亡き後、叔父松平信定によって岡崎城から放逐された松平竹千代は、吉良持広に庇護を求めて、その持広の仲介により義元と対面します。 吉良氏は足利一門の名家でしたが、室町幕府初期の観応の攪乱において、西条吉良氏と東条吉良氏に分裂して事あるごとに紛争を続けて弱体化しました。 この頃は西条吉良氏は織田氏の、東条吉良氏は今川氏の庇護を受けてい

          桶狭間の戦いの考察9

          桶狭間の戦いの考察8

          今川義元が桶狭間の戦いで何故破れたのかを考察する記事、第8回。 今回は若き日の義元の事績を。 ■相続直後に大失敗の義元後に「海道一の弓取り」と称賛された今川義元ですが、若き日は失敗に継ぐ失敗の日々でした。 わずか半月で「花倉の乱」を収め、華々しく戦国の世に登場した義元でしたが、まだ家中の動揺は収まっていませんでした。 そこで外征よりも国内を優先させようと、長年抗争を続けてきた甲斐武田氏と本格的に和睦を行い、花倉の乱の翌年1537年に武田信虎の娘を正室に迎えます。(武田

          桶狭間の戦いの考察8

          桶狭間の戦いの考察7

          桶狭間の戦いで今川義元が何故負けたのかを考察する記事、第7回。 今回、いよいよ義元が登場します。 このシリーズの主役なんですけど。長らくお待たせいたしました。 ■今川家家督相続と「花倉の乱」当主の氏輝、そして後継者筆頭の彦五郎が同日に相次いで亡くなるという事件が起こった今川家は、急ぎ後継者を決めなくてはならなくなりました。 東の小田原北条氏とは同盟関係にありましたが、北方の甲斐武田氏とは長い間敵対関係にありました。 西も松平清康が亡くなったとはいえ、松平勢は未だ健在

          桶狭間の戦いの考察7

          桶狭間の戦いの考察6

          今川義元が桶狭間の戦いで何故負けたのかを考察する記事、第6回目。 今回は守山崩れから、氏輝の死を。 ■松平清康暗殺事件「守山崩れ」尾張守山城を取り囲んでいた松平清康率いる三河勢に凶報が走ります。 松平清康、死亡。 配下の阿部正豊に一撃の元、切り殺されるという衝撃的な事件でした。 清康は三河全土に勢力を伸ばしましたが、わずか10年足らずで急速に版図を拡大した結果、領内の経営には歪みが生じていました。 また配下の兵には優しかった反面、親族や重臣たちとの折り合いが悪く、

          桶狭間の戦いの考察6

          桶狭間の戦いの考察5

          今川義元が何故桶狭間で負けたのかを考察する記事、第5回目。 今回は三河のお話。 ■三河国で台頭した松平氏現在の愛知県東部にあった三河国。 戦国期では矢作川周辺を「西三河」、吉田川周辺を「東三河」と呼びますが、古くは西三河のみを「三河国」と呼んでいたようです。 駿河、遠江、尾張と大小様々な動乱があったため比較的落ち着いているように思われる三河国ですが、そんなことはありません。 三河では室町幕府成立当初の観応の攪乱で吉良氏が分裂・抗争を起こし、三河の国人衆も両派に分かれ

          桶狭間の戦いの考察5

          桶狭間の戦いの考察4

          今川義元が何故桶狭間で負けたのかを考察する記事、第4回目。 今回は応仁の乱以降の今川氏の動きを中心にします。 ■応仁の乱で当主が討死した今川氏斯波氏の家督争いである武衛騒動から畠山氏、さらには将軍家の後嗣問題にまで発展した室町幕府の権力闘争は、ついには全国を二分する「応仁の乱」を勃発させます。(1467年) 東軍、西軍に各勢力がつく形になり、今川氏は東軍側につきます。(ちなみに斯波氏は西軍) 当時の当主今川義忠は、この機に乗じて西軍側の斯波氏から遠江を奪おうと画策しま

          桶狭間の戦いの考察4

          桶狭間の戦いの考察3

          今川義元が何故桶狭間で破れたのか、を考察する記事のその3。 今回は桶狭間のもう一人の主役織田氏について。 ■実は越前出身の織田氏斯波氏には有力な被官が三家ありました。甲斐、朝倉、そして織田です。 越前国織田荘の国人で、斯波氏が尾張守護を拝命した後、守護代として尾張に根付くことになります。 ちなみに、この織田氏は代々伊勢守を自称したため、「伊勢守家」と呼ばれました。しかし守護代ながら、京都にいた当主斯波氏の側にいたため、実際は「大和守家」と呼ばれる織田氏が尾張の地で統治

          桶狭間の戦いの考察3

          桶狭間の戦いの考察2

          今川義元が何故桶狭間で破れたのか、を考察する記事。 第二回は尾張(斯波氏)のお話を。 なかなか桶狭間どころか義元、信長すら登場しませんが、今川家がなんで遠江、三河、尾張の支配を目指したのか背景が分かればより桶狭間に至る経緯が分かるかと思いました。 ■足利一門家、斯波氏前回、足利一門の名家として吉良氏、今川氏を紹介しましたが、もうひとつの足利一門の名家である斯波氏を紹介します。 足利4代目当主泰氏の庶長子、家氏を祖として、代々尾張守を自称したため「足利尾張家」とも言われ

          桶狭間の戦いの考察2

          桶狭間の戦いの考察 1

          桶狭間の戦い。 戦国時代が好きな人なら誰もが知っている、というよりも歴史を勉強する上で必ず通る戦いです。 今川義元と織田信長の軍勢が戦闘になり、今川義元が討ち取られた。 これが歴史の事実です。 そして今川義元といえば、どんなイメージでしょう。 油断して桶狭間で負けた人。 白化粧にお歯黒の貴族かぶれ武将。 おそらく30代以降の人だと、こんな言葉が頭に浮かぶのではないだろうか。 そんな今川義元ですが、なかなか強かな武将であったことは近年の研究で明らかになっています。

          桶狭間の戦いの考察 1

          F1 70周年グランプリの感想

          8月9日にイギリス、シルバーストーンサーキットで行われたF1 70周年グランプリですが、レッドブルホンダのマックス・フェルスタッペンが見事に優勝。 今年、絶対的な優位を築いていたメルセデスに一矢を報いる形になりました。 メルセデスとレッドブル、お互いのメリット、デメリットがはっきりしたレース展開となり、観ていて久々に楽しいレースでした。 ■露呈したメルセデスの弱点昨年のメルセデスは、悪天候、路面温度が低い、サーキットが高い場所にある、という条件だと苦戦を強いられることが

          F1 70周年グランプリの感想

          新型コロナウイルスの報道について思うこと 2

          引き続き、新型コロナウイルス関連のお話です。 今回でこの話はいったん終わりにします。 前回の記事はこちらです(https://note.com/hirotuba2020/n/n53be925b8ff9) 前回は、新型コロナの報道が騒ぎすぎではないのか、という記事を書きました。 その考えは変わっていません。 だからといって楽観視しているわけでもありません。 ウイルス感染症ですから、根絶しない限りゼロリスクは存在しません。かくいう私も、明日以降に罹患する可能性がありま

          新型コロナウイルスの報道について思うこと 2