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子どもや保護者を批判する資格がある?

人は自分に都合の悪いことは見ようとしない。意図的・意識的に見ようとしないのではなく、無意識のうちに視界から排除する。その方が人間が生存するためには都合が良いのだから仕方ない。これは人間の本質とかいうよりも、むしろ生物学的な問題ではないかとさえ思う。例えば、教師は自分がそれほどの教師でないことを絶対に見ようとしない。それどころかたいして自慢できることもない、ありふれた人間であることさえ認めようとしない。それを認めてしまったら、子どもたちに人間いかに生きるべきかを語る資格がなくなってしまう。これを認めない方が教師という生き物の生存にとって有利なのだから仕方ない。

しかし、自分に都合の悪いことを見ようとしないのは良いとして、教師という生き物たちが他人の悪いところはよく見えているつもりでいるのはいただけない。職員室にいる同類同士で表出し合ってしまい、自分たちの種の優位性を確かめようとするところがもっといただけない。子どもの悪いところ、保護者の悪いところ、社会の悪いところ、どれもこれもよく見えているつもりでいて、みんなで批判を共有して溜息をつく。自分たちはこんなに頑張っているのに子どもが悪い、保護者が悪い、社会が悪い……。その趣はまるで自分たちっが神の視座でももっているかのようだ。

それでいて何かの機会に自分が批判されたときには、烈火のごとく怒り狂って手のつけられないほどに攻撃的になるか、批判されてしまったことに屈折して弱い自分をさらしてこの世の終わりのように落ち込むかのどちらかである。どちらも周りが何もできなくなる。攻撃しようとする気も失せるし助けようという気も失せる。手をつけられないのだから遠巻きに見ているしかない。そのうちに怒り狂った者は周りが何もしないのが悪いとひねくれ、落ち込んだ者はだれも助けてくれないと閉じ籠もる。そんな例が多い。

教師は基本的に子どもを教育することを仕事としている。確かに学習指導もするけれど、この国ではそれ以上に人格教育、人間教育が大切だと考えられている。よく教師から、塾の先生は勉強だけ教えてればいいから楽だよなという声を聞く。教師が自分たちの仕事を勉強を教えるだけではないと捉えている何よりの証拠だ。おそらくのこの国で教職に就くことは、塾の先生の仕事と神父さんの仕事とを同時に担わなければならない、そんな立場に就くことを意味する。しかし、学校の先生が担う神父さんの仕事には、実は宗教的世界観の後ろ盾がない。これが僕らの仕事をたいへん難しいものにしている。

神父さんと信者との間には世界観の共有がある。だから神父さんの言葉を信者は基本的に素直に受け取ることができる。ところが、教師と子どもや保護者との間には世界観の共有がない。だから教師としての人徳と教師としての技術が必要にされる。子どもや保護者が教師に対して向けている視線とはそういうものだ。しかし、教師はただのありふれた人間の集まりに過ぎない。教師の側から見ると、自分たちはそれほどの人格者ではないし、人間関係をつくる技術も未熟である。そこで自分という一個人はまだまだ未熟だけれど、自分も含めてだれもがそれを目指さなければならない世界観があるという理屈を無意識的に学校教育は創り上げてきた。だからきみたちもそういう世界観を目指さねばならないと子どもたちに説くことで宗教的世界観の欠落を補ってきた。それは概ね「他人に対する思いやりをもって正しい生き方をすれば、必ずみんなで幸せになれる」とでもいうべき世界観であり、もはや学校においては教義と化している。この国ではいかなる学校においても、学校であるかぎりにおいてこの世界観が手を換え品を換えて教えられていると言ってよい。

実はこの世界観が教師にある種の神の視座をもたせ、子どもや保護者、社会を批判させる。この教義を全うできない子ども・保護者をすべて非難の対象にさせてしまう。そういう構造がある。

しかし、ここで大切なのは、教師が後ろ盾としているこの学校教育の教義が、ひと言でいうなら「『世界』と『個人』が対立したときには理は世界の側にある」ということを意味しているということだ。教師として心ならずも子どもや保護者と対峙してしまったとき、教師は自分が「世界」の側にいると認識している。言っておくが「社会」ではない。「社会」を超越したあくまで「世界」である。「真理」と言った方がわかりやすければそれでもいい。そして僕もまた長年教師として生きてきた手前、この構造を是認ぜさるを得ない。それをどうこう言うつもりはない。

ただ、自分が批判されたときにも、実は同じ構造があるのではないかと言いたいだけである。自分が批判されたときにも、怒り狂ったり落ち込んだりせずに、「理は世界の側にある」と認めるべきではないか。そう言いたいだけである。

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