みかんとブラック
今日、退勤途中にみかんを買ってきた。5個入りの袋である。18時くらいに原稿を書きながら食べ始めて、たったいま、5個目を食べ終えた。今日は夕食を食べていないから、このくらいはまあいいだろう。
子どもの頃、こたつに入って、テレビを見ながらよくみかんを食べたなあ……と、ふと想い出した。当時はみかんというものはどこの家庭でも箱買いするものだった。テレビを見ながら食べていると、気づくと10個くらい食べてしまっていた。そしてその10個の中には、4個か、5個くらいの「ハズレ」があったものだ。要するに甘くないのだ。でも僕らはただ「ハズレだ~」と笑っていた。腹も立たなかった。その「ハズレ」をにこにこして受け入れていた。「ハズレ」があるのは当然のことだった。
今日買ってきた5個はすべてが甘かった。完璧に甘かった。このことに僕は疑問を感じる。おそらく同世代以上の人たちは、僕の疑問の質を理解してくれるだろうと思う。
現在は「ハズレ」が許されない時代なのである。僕ら教員は教員ばかりがクレームを受けているような気でいるけれど、決してそうではない。みかん農家も、加工業者も、流通業者も、みんな「ハズレが許されない世の中」を生きている。生産者はみな、「ハズレ」を提供するわけにはいかないのだ。この「ハズレなし」でないと許されないという風潮はいつ頃から始まったのだろうか。消費者が絶対に「ハズレ」を許さなくなったのはいつ頃からだったろうか。
こんな風潮だから生徒や保護者が「ハズレ教師」を嫌うのは当然である。消費者感覚なのだから、それは仕方ない。しかし、「教職はブラックだ」と叫ぶ教員もまた、教職を「ハズレ」だと言っているのであり、それは生産者側の感覚ではなく、消費者側の感覚でものを言っているということなのである。消費者感覚の教師が、消費者感覚の保護者にクレームをつけられたとき、それは絶対に勝てるものではない。そして消費者感覚では許されない生産者的努力が必要とされるようになる。そのとき、結局はブラックな働き方をしなくてはならなくなる。
教職が「ブラック」なのではない。一億総消費者感覚が、すべての仕事を「ブラック」にしているのである。
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