空気
人間はそもそも矛盾した存在です。論理的に正しいことをしようとする自分と、情緒的に安定した生活をしたい自分とが葛藤しています。社会で起こるすべて問題は、〈論理〉の問題と〈情緒〉の問題との二つを基軸にして起こります。少なくとも、私にはそう見えます。
〈論理〉を重んじる人と〈情緒〉を重んじる人との間にはほぼ間違いなく軋轢が起こります。
日本人はもともと〈情緒〉を重んじることを習慣としてきました。何かを改革しようとしたときに、それは顕著に出てきます。みんなが感情的に受け入れられる場合にはその改革案がすんなり通ります。しかし、そうでない場合、つまりいろいろなところから反対が出て抵抗を受けた場合には、その改革がどんなに〈論理〉的に正しかったとしても、皆の〈情緒〉の安定のために「今回は見送って、取り敢えず様子をみよう」ということになります。そして多数の〈情緒〉の安定を優先する無意識的な同調圧力をこの国では「空気」と呼びます。
この構造はあまりにも強固で、多くの人々の生命にかかわる問題であってもまったく変わりません。山本七平は戦艦大和が出撃するか否かを決める、軍部エリートが集まった会議でさえ、日本人はこの構造から逃れられなかったことを詳細に報告しています(『空気の研究』新潮文庫・1977年)。
こうした構造があくまで古いタイプの日本人の意識構造であり、これからは西洋的な自己意識をしっかりもって〈論理〉で考える時代がきている、そう考える方がいらっしゃるかもしれません。しかし、まったくそうではありません。バブルの崩壊以来、日本は基本的には不景気が続いていますが、この間、社会は次第に〈情緒〉よりも〈論理〉を優先しながら運営せざるを得なくなってきています。〈情緒〉を優先していては破綻してしまうわけですから、そうせざるを得ません。政治にも企業にも家族にも、「生きて残るためには仕方ない」「食べていくためには仕方ない」と〈情緒〉の安定を捨象する判断がはびこります。そのおかげでこの国の人たちはすっかり日常的不機嫌な人たちになってしまいました。そしてせっかくお金を払っているのに充分な満足を得ることができないようなサービスしか提供されなかったとき、クレームをつけても良いという「空気」が醸成されてきました。また、いまだに安定神話のなかで生きているように見える公務員に対してはバッシングの「空気」が形成されていきます。
子どもたちもこの構造と無縁ではありません。1980年代中庸から学校内のいじめが社会問題になっていますが、いじめもまた教室の多数派の「空気」によって起こります。いじりいじられるのが楽しい、多少のからかいはコミュニケーションの潤滑油である、階層が下の者が生意気な態度をとるのは自分たちの精神的安定を脅かす悪事である、子ども集団にこうした無意識的な善悪の感覚があり、それが集団のなかにいじめを肯定する「空気」をつくります。更に集団のノリによってその空気が増幅し、深刻ないじめへと発展するわけです。
こうした多数の〈情緒〉を安定させるために「空気」としてできあがったいじめに対して、「いじめは絶対に許されない!」といった〈論理〉的な説得は無力です。「空気」に対抗できるのは「空気」だけです。いじめを肯定しない「空気」、或いはいじめよりも楽しかったり充実したりするものがあるという「空気」を醸成され形成されない限り、いじめが影を潜めることはあり得ません。
私にとっての「バランス力」とは、こうした考え方に従っての一つ一つの判断力のことを意味します。
この国の教育も同じ構造でできています。戦後の教育政策は常に、「経験主義」と呼ばれる関心・意欲・態度を重視する教育観と「系統主義」と呼ばれる学力形成を重視する教育観とが綱引きを続けています。ざっくりと言うなら、前者が〈情緒〉を優先する教育観、後者が〈論理〉を優先する教育観といえます。
例えば、戦後、授業づくりの在り方がさまざまに検討されてきましたが、なんだかんだ言っても一斉授業が主流でした。一斉授業は50人とか40人とかの子どもたちを一箇所に集めて、一人の教師が説明したり指示したり発問したりしながら、効率的に指導内容を教えていく、身につけさせていくということです。これは基本的に「系統主義的授業観」に立っています。
しかし、こうした授業の在り方が長く成立してきたのは、明治以来の立身出世とか、戦後の学歴社会とか、知識や技術を学べば社会のためになる、幸せになれるという「空気」が社会にあったからなのです。社会の「空気」が一斉授業の成立を後押ししていたのです。教師は自分の授業の技量などではなく、あくまで社会の「空気」によって授業を成立させることができていただけなのです。もちろん、教師個々の間に力量の差があったことは自明ですが、その差など一斉授業の成立の要因としては微々たるものに過ぎません。
その「空気」が急激に薄まっているのです。勉強しても、学歴が高くても幸せになれるとは限らない。大企業だってつぶれる、リストラされることもある、テストの点数は必ずしも人を幸せにするわけではない、そういう「空気」が急激に形成されてきました。その代わりに浮上してきたのが、「コミュニケーション能力」というなんとも定義のしようのない曖昧な概念です。
現在、協同学習・ファシリテーション・プロジェクトアドベンチャー・グループエンカウンターなど、コミュニケーション系の学習理念・学習方法が大流行しています。これらは基本的に「経験主義的授業観」に立った手法といえますが、これらの流行も間違いなく時代の「空気」が後押ししているからこその流行なのです。
しかし、学校教育の存在を認めるコンセンサスは、なんだかんだ言ってもまだまだ学力形成です。こうしたコミュニケーション経験主義の教育が学校教育の根幹とされる学力を本当に形成するのか否か、それはまだ未知数といわざるを得ません。今後、数十年をかけて壮大な実験が為されるというのが本当のところなのかもしれません。
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