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勝利者は勝利者たることを意識しない?

「負けたくない」という言葉を聞くことがある。

教師の口からである。しかも研究会で出会った人たちの口から、直接・間接にこの言葉が出てくるのだ。ときには研究会の休憩時間にひたむきな表情で。ときには研究会の後日僕に対する質問のメールで。ときには僕の編著の原稿を依頼した際の原稿のなかで。この言葉を聞くと僕は戸惑ってしまう。いったいこの人はだれに負けたくないのか。だれと勝負しているのか。それが皆目わからないのだ。僕には見当もつかないのだ。

部活動を指導していてライバル校との対戦を控えているというのならわかる。同期採用のライバルがいてどちらが先に指導主事になるかを争っているというのなら、まあわからなくもない。百歩譲って、近々二つの公開授業があり、自分がうち一つの授業者であるという場合ならまだわかる。研究授業の評価なら有形無形に自分の耳に入ってくることがあるから、それにこだわってしまうということもあり得る。こうしたある程度の結果が示されるというものでない限り、僕は「負けたくない」という言葉を使わない。「自分に負けたくない」というのならわかる。弱気になる自分が嫌いで、自分の弱さに打ち勝ちたいという心情なら理解できる。しかし、彼ら彼女ら(僕に「負けたくない」旨を告げて僕を戸惑わせるのは決して男性教師ばかりではない)はなにか漠然とした相手を想定して、その相手に「負けたくない」と言っているようなのだ。だからこそ僕は戸惑う。

複数の人が参加し、勝ち負けがはっきりと決まる営みを俗に「ゲーム」と言う。野球のゲーム、バスケットのゲーム、トランプのゲーム、PCのゲーム、どれも複数が参加し勝ち負けがはっきりと決まる。「ゲーム」という言葉は英語ではあるが、既に日本人の心に深く根付いている。そんな日常が「人生はゲームだ」なんていう比喩を産み出した。おそらく彼ら彼女らは無意識のうちにこの比喩に自らの心情を掠め取られている。特に学生時代、体育系の部活動に勤しみ、部活動の経験を人生の糧として生きている人たちにこういう発想をする者が多いような気がする(でもこれは僕の思い込みかもしれない危険性がある)。

あまりに当然すぎて言うのもはばかられるが、教育実践はゲームではない。複数の人間が参加はするけれど、決して明確な勝ち負けなどつかない。学級づくりにおいて隣の担任に勝っているとか負けているとか、あの人より自分のほうが授業が上手いとか、僕が職員室で最も優れ教師だとか感じるのは、その教師の心持ちに過ぎない。その「自己満足ゲーム」には他のだれ一人として参加していない。一人遊びのマスターベーションに過ぎない。複数参加の原則が崩れているのだからもはや「ゲーム」でさえない。そういう人はこの単純な構造を理解していない。

僕の研究会に参加したり僕の編著書に原稿を書いたりする方々は実践研究に一生懸命に取り組んでいる教師であるわけだが、もちろん実践研究も「ゲーム」ではない。だいいち実践研究は必ずしも複数の人間が参加するわけではないから勝負の相手がいない。僕らのように著書のある実践者が著書の売り上げを競う場合がないわけではないが、それさえも笑い話として話題となることはあっても、著書の売り上げが高い者ほど優れた実践をしているなどとはだれも思っていないから、そんな会話は一瞬のこと。僕らの記憶にも残らない。

そもそも優れた実践研究というものはそれぞれが比較され、相対評価されるものでさえない。僕と同世代で懇意にしている実践者に石川晋とか赤坂真二とか青山新吾なんかがいるけれど、僕は石川に勝っているとか赤坂に負けているとか青山より優れているとか、そんな自己評価など考えたこともない。僕らは長い間、ただお互いに刺激を与え合い、ただお互いに学び合い、ただお互いに成長し合ってきただけである。

明日の自分は今日の自分とどう違うだろう。三年後の自分にはいったい何が見えているだろう。五年後の自分はいまの自分には想像もできないことを考えているに違いない。そういう未来の自分に対する期待だけが僕らの情熱を支えている。今日はこういう良いことがあった、今日は子どもの一人がこんな嬉しいことを言ってくれた、今日は同僚と一緒にこんな良い仕事ができた、そんな教師であればだれもが感じるはずの些細なことだけが僕らの毎日を支えている。

数年前のことである。勤務校の校長に上目遣いに言われたことがある。それもその校長が赴任してきたばかりの、まだ人間関係も築けていない時期のことである。

「将来がバラ色の勝ち組はやっぱり違うなあ。僕らとは考えてることの次元が違うね。」

僕が校務以外でこの人の頼みは絶対にきくまいと決意した瞬間だった。

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