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マイナスをなくせばプラスが生まれる?

いじめのない学校、不登校のいない学校、非行のない学校……。「○○のない学校」「○○のない学級」が目指される。いじめも不登校も非行もあるよりない方がいい。それは確かだ。でも、「○○がない」ことはマイナスをゼロにすることであって、決して子どもたちの精神状態がそれによってプラスに転化するわけではない。満足度が上がるわけではない。

マイナスがなくなれることとプラスになることとの間には大きな距離がある。教師が忘れてはならないテーゼの一つだと感じている。

例えば、新しくもった学級にいじめがあるとする。教師はまずはこのいじめをなんとかしようとする。当然のことである。しかし、すべての精力をこのいじめ指導に向けてはいけない。そのいじめ指導は、いじめに関わっていない子どもたちには何の効力もない。

例えば、新しくもった学級にやんちゃ系の子がいるとする。職員室の先生方のだれもが知っているような問題傾向の子で、自分も覚悟をもってこの子を担任した。四月からこの子をなんとかしようと教師は奔走する。でも、この子に時間と労力をかけていろいろな手立てを打っているうちに、なんとなく他の普通の子たちがガチャガチャし始めてしまった。教師の精力は普通の子に向けられるようになる。でももう間に合わない。そうこうしているうちにやんちゃな子も問題を起こし始める。もう手の打ちようがない。秋には学級崩壊である。保護者も騒ぎだし、教師はその対応にも追われ始める。管理職に相談したり臨時の学級懇談会がもたれたりするが、教師の心も少しずつ蝕まれ始める。教師は二学期を乗り切ることができずに休職する。最近よく見られる失敗事例である。 どちらもマイナスをなくすことに汲々とし、学級にプラスをつくり出すことを怠ったことから生まれる失敗だ。借金を返すことに汲々とする家族はやはり生活が苦しい。いつまでたっても絶対にお金が貯まることはない。言ってみれば、こういう教師は借金を返すことに全精力を傾けてしまった教師ということになる。

マイナスをなくすには論理が必要である。だから、教師はいじめをなくすためにも、やんちゃ系を指導するにも、なんとか論理を理解させようとする。いじめはなぜいけないか、みくんなと協調することがいかに大切なことつなのか、そんな論理を教師は語る。借金も論理的に返す。いくらの収入があるからこれだけあればぎりぎり生活できるから生活費はこれこれで、あとは借金の返済にあてて……と。しかし、世の中にプラスをもたらすのは論理ではない。リーダーというのはルールや論理では解決できないトラブル事案にルールや論理を超えた意志決定をするからこそリーダーなのである。良きリーダーとは皆、そういうリーダーたちだ。

例えば、恋愛相談をしてくる女の子に対してこれはこういうことだから、こうこうすればきみの戸惑いは解消するよと論理的に言って聞かせることは愚の骨頂である。「私が知りたいのはそんなことじゃない」「あなたは冷たい」と責められ、次の日には「あの人は冷酷で功利的な人だ」という風評が職場に流されることになる。それは恋愛だからと考えてはいけない。世の中で起こる人間関係トラブルはすべて、恋愛と同じように論理ではなく感情で動いているのである。むしろ、世の中のすべての人間関係トラブルの典型が恋愛において最も顕在化しやすいのだと考えた方が事実に近い。だから人間関係トラブルに巻き込まれたら、僕らはすべからく論理を捨てた対応に徹した方がいい。そういうものだ。

例えば、チャールズ・チャップリンは「殺人狂時代」において、「一人の殺人は犯罪者を生むが、百万の殺人は英雄を生む。」と戦争を揶揄した。人間の感情というのはこういうもので、戦争によって自分たちのマイナスが取り去られ、プラスの感情へと移行することができるのならば、百万の死に対してさえ論理的に考えられないのが人間なのだということは意識したい。

教師が新しい学級をもったとき、まず最初にしなければならないことは、子どもたちにいい思いをさせることである。楽しいとか、嬉しいとか、いずれにしてもこの学級でこの先生と一年間過ごすことで自分たちはいい思いができる……という印象を与えることである。そういう空気を形成することである。そこにこそ、教師は時間と労力をつぎ込まねばならない。

考えてみるといい。いい空気を前提に行われるいじめ指導と、ただ新しい担任への不安のなかで行われるいじめ指導とではどちらがより機能するか。いい空気を前提に行われるやんちゃ指導と、ただ新しい学級への不安のなかで行われるやんちゃ指導とではどちらがより機能し得るか。答えは言うまでもない。

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