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言葉は意味よりも比喩?

世の中には「木を見て森を見ず」の人が八割を占める。「森を見て木を見ず」の人が二割。この二割はとても生きづらい日常を送っている。

「森を見て木を見ず」の人たちの何割かは「森を見て木も見る」人たちになっていく。経験を重ねることでさまざまな木が自らの森に結びつき、それを意識しながら生きることで成熟を示す。この人たちは他人に優しくなり、さまざまな業界で一流に昇っていく。こうして少数の〈森先行型の一流〉が生まれる。

「木を見て森を見ず」の人たちの何割かは「木を見て森も見る」に移行としようとする。でも、なかなかうまくいかない。木しか見てこなかった人にとって森を見ることは殊の外難しい。ほとんど人たちが中途で諦めてしまう。自分は自分だなどと自分を納得させて。それでもこれに成功する人は出ないわけではない。そんな人たちがごくごく少数の〈木成功型の一流〉に昇っていく。

ほんとうは「木も森も見る」のが良いに決まっている。だれだってそれはわかっている。でも、人間は自分の主体に縛られるからそれができない。木も森も等価に見ることができる人はおそらく〈超一流〉になれる。歴史に名を起こす偉人たちの多くは、そんな人たちなのかもしれない。

僕はふと時間があいたとき、煙草を一服しながらよくこんなことを考える。

ある若い女性同僚に訊かれたことがある。

「堀先生にとって、『アイデンティティ』という言葉はどういう意義をもってますか?」

ああ、この子はいま、「木を見て森も見る」に移行したいともがいているのだな……僕は一瞬でそう直感する。アイデンティティ……。僕にもこの言葉が大切だった時代がある。さまざまな西洋哲学を読み始めた学生時代のことだ。学生時代の文章をいま読み返すと赤面してしまう。アイデンティティはもとより、メタファとかアナロジーとかラングとかパロールとか現象学的還元とか脱構築とか、どうでもいい些細な日常分析にこんなにも大仰な言葉を使って自分だけの高鼻をつくっていた。いま考えても頬が熱くなる。

みんな気づいていないことを自分だけは知っている。その「勘違い境地」ともいうべきものが人に欺瞞をつくり、人を高慢にさせる。若いときなら尚更だ。彼女は彼女なりに深刻な問題を抱えているようで真剣に訊いていたので、僕は誠実に応えることにした。

「『アイデンティティ』なんて言葉に踊らされなくなったときが、『アイデンティティ』を獲得したときだ。その段階に入ると、たいていは『アイデンティティ』なんて言葉はまったく頭に浮かばなくなっているものだ。」

僕が話し終えるまでの数分間、彼女は熱心に僕の話を聞いていたが、彼女の表情からクェスチョンマークが消えることはなかった。そんな彼女の表情に僕はある種の愛おしさを感じながら、彼女のその後の人生に思いを馳せていた。この子は僕の言っている段階まで到達することができるだろうか。ああ、あのとき堀先生が言っていたのはこういうことだったのだなと実感的に捉えることのできる段階まで進むことができるだろうか。諦めずに進んで欲しい。木を見る人間が森まで見たいと思うこと自体がそれほどあることではないのだから……。

言葉がほんとうは暗示することしかできないものだということを、僕に教えてくれたのは寺田透だった。確か僕が二十三歳のときだ。ある文芸誌のエッセイでこの詩人がさまざまな具体例を用いて僕に暗示してくれた。いま考えるとこんなテーゼはさして珍しいものではなく、寺田に先行して同じ趣旨を述べた文章など数限りなくある。でも、僕に初めてこの「言葉の本質」に関して実感的に伝えてくれ、納得させてくれたのは寺田透だったわけだ。寺田のエッセイと出逢ったおかげで、もっと性格に言うなら、それ以前に欺瞞・高慢に陥っていた僕がこのタイミングで寺田のエッセイと出逢ったおかげで、僕は僕の人生において新たな段階に進むことができたわけである。僕はいまでも寺田透にある種の畏敬を抱いて止まない。

僕ら教師の言葉は子どもたちにとって、いつだって僕にとっての寺田透として機能する可能性がある。ただ一義的な言葉を語って指導はしたというアリバイづくりをするような言葉ではなく、言葉の暗示性を深く腹に据えて、子どもたちにさまざまな可能性をもたらすような言葉で語らねばならない。子どもは須く「木を見て森を見ず」である。その子たちに「森」を見せるために必要なのは決して直接に「森」を語ることではない。「森」を暗示する言葉、即ち「森の比喩」である。若い女性同僚にもそんなことを意識しながら語ったつもりなのだが……。

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