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ハミルトンホールに集うコロンビア大生はいまもジョニ・ミッチェルを歌うのだろうか(なら、ユーミンは誰が?)

先月30日、ニューヨーク・コロンビア大学のハミルトンホールに警察隊が突入。イスラエルによるパレスチナ自治区ガザ地区への武力攻撃に抗議する学生およそ300人が逮捕された、とテレビ報道等。

期せずして、この日「4月30日」は、1968年、コロンビア大学当局の要請によって出動した州兵や警官らによって、ベトナム戦争に激しく抗う学生らが排除されたのと同じ日。学生たちが立てこもったのも、同じハミルトンホールであった。

この56年前の出来事をモチーフに映画「いちご白書」{原題: The Strawberry Statement)が撮られたのは有名な話。調べてみれば、日本での封切りは1970年となっているが、当時暮らした博多での映画の封切りは、一般的には東京より半年かそこら平気で遅れることも珍しくなかったことから、僕が観たのは中学に上がるか上がらないかだったのだろう。中洲辺りの映画館で観たことはおぼろげに記憶にあるが、あれは「一人で映画を観る」を身につけてすぐのスリリングな冒険だったに違いない。

警官隊に飛びかからんとする主人公・サイモンのストップモーションに被せて流れる主題歌「サークル・ゲーム」(作詞・作曲はジョニ・ミッチェル)は、あれから半世紀が経ったいまも、時折、頭の中でリフを想起したら最後、小一時間は音楽が鳴り止まない。映画音楽の原体験としては、映画「小さな恋のメロディ」のビージーズと双璧である。

戻って、コロンビア大学。その美しいキャンパスに(ニューヨーク大学に移るまでの)1年通ったのは1988年の夏からだったから、つまりは、最初にハミルトンホールが学生に占拠されてからちょうど20年経っていたことになる。もちろん、手入れの行き届いた建物群や芝生には学生運動の痕跡もなにも残されていないかに思えたが、政府や政治の理不尽に対して愚直かつ果敢に立ち向かうスクールカラーのようなものは、埋み火のように燻っていた、ということになる。1年ぽっきりのコロンビア大留学経験者(「首席卒業生」では決してない)の一人として嬉しくも誇らしく思う。

ところで、映画「いちご白書」を下敷きにして、バンバンのヒット曲「「いちご白書」をもう一度」はユーミンによって書き下ろされた。ユーミンが未だ荒井由実時代の作品である。

いつか君といった 映画がまた来る
授業を抜け出して 二人で出かけた

哀しい場面では 涙ぐんでた
素直な横顔が 今も恋しい

雨に破れかけた 街角のポスターに
過ぎ去った昔が 鮮やかによみがえる

君もみるだろうか 「いちご白書」を
二人だけのメモリー どこかでもう一度
(荒井由実作詞・作曲「「いちご白書」をもう一度」)

もちろん、「二人」が最初に、一緒に「いちご白書」を観たのは、一度目の封切り時、すなわち1970年の頃のことであるはずで、それは、日本でも東大の安田講堂が学生に占拠された1969年の翌年に当たる。つまり「二人」はハミルトンホールや安田講堂に籠城した学生たちと同じ昂揚感と挫折感とを同時代的に味わった、と考えることも自然である。

それが、(曲の2番以降で)就職を期に、「もう若くはないさ」と自虐しながら、長かった髪を切ることに。

※ちなみに、この「就職」→「髪を切る」は順番が違う、本来は「髪を切る」→「就活」→「就職」ではないか、というネット民の意見も散見されるが、このことについては、曲を歌ったばんばひろふみ自らが、長髪でも全然へっちゃらで受かるほど(この学生は)優秀だったに違いない、と作者のユーミンを猛烈擁護(?)している。

名画館かどこかでの再上映が「街角のポスター」で知らされた時期が、バンバンの楽曲としてこの曲が最初にリリースされた1975年前後と考えると、「断髪」、あるいは「就職」から少なくとも3、4年は経ったのだろう。サビとして「二人だけのメモリー どこかでもう一度」と繰り返されるが、仮にこれを「あの思い出の映画をいつかまた二人でもう一度観たいものだ」と解するならば、断じていう。それは男性の側の身勝手な妄想でしかなくて、もう十中八九それはないのだぞ、と。

もっとも、作者のユーミンはそのことをよーく理解した上で、男性歌手のばんばひろふみを当て込みながら「どこかでもう一度」と歌わせたものと思う。なので、後に自身のカバーアルバムに同曲を選定もし、 (女性として)自ら歌ったときは、

「君もみるだろうか 「いちご白書」を
二人だけのメモリー 私は行かないよ」

と(心の中では)思いを込めて歌い上げたに違いない。

他方で、海の向こうのジョニ・ミッチェルは書く。

And the seasons they go round and round
And the painted ponies go up and down
We’re captive on the carousel of time
We can’t return, we can only look behind
From where we came
And go round and round and round
In the circle game
(Circle Game, by Joni Michell)
季節は巡りに巡る
ペンキに塗り込められた木馬は上がっては下がる
時という木馬に囚われた僕たち
後戻りはできない
元いた場所を振り返るだけ
サークルゲームの中で
ぐるぐるぐるぐる回り続けるだけ
(拙訳)

なるほど、「後戻り」はできないけど、「振り返る」ことは良しとしよう、ということか。

ハイパーインフレと円安のダブルパンチで当分はニューヨークには戻れそうにないが、彼の地やそこにいまも暮らす人々のことを思うことはできる。直接ハミルトンホールに駆けつけて、学生たちにエールを送ることはできないが、ガザで苦しい生活を強いられている人々に思いを馳せ、ネット募金に呼応して喜捨することはできる。自身が選挙に立ち、議会で声を荒げることはできないが、選挙に行き、どうしようもない議員たちの「落選運動」に呼応することくらいならできる。大切なのは当事者意識を研ぎ澄ますことなのだから。



※こちらはジョニ・ミッチェル版であり、映画「いちご白書」の使用楽曲とは異なります。


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