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真鍮お察しあれ

子どもの頃から真鍮(しんちゅう)に独特の鈍い輝きがなんとも好きだった。もっといえば、「真鍮」という言葉の響きそのものがいまもお気に入り。

小6の、なにかの宿題の作文を「教室の真ちゅうの取手を回すと……」と書き出しては、言葉の醸し出す世界観に一人で悦に入っていたが、そもそもあの当時の木造校舎の教室のドアノブが正真正銘の真鍮——すなわち、銅と亜鉛の合金——だったのかどうか……いまとなっては疑わしい。

長じて大人になってからも僕の真鍮好きはなんら揺らぐことはなかった。真鍮のデスク照明、真鍮のタオル掛け、真鍮のトイレットペーパーホルダーから、果ては真鍮の靴べら、真鍮の石鹸入れに至るまで、コレクションというのともちょっと違うが、一度手に入れた真鍮製は愛でるように大事に使って来た。

もっとも、「お風呂の石鹸入れ」に真鍮が向くかどうかはいまとなっては甚だ疑問。10年ほど使い続けていたら全面に緑青(ろくしょう)が浮いて来て、(僕以外の)家族全員に、

「木でもプラスチックでもなんでもいいから、フツーのにして、フツーのに」

とさんざん気持ち悪がられた。

僕は僕で、それとはまた別の理由(=水抜きの穴が小さすぎて、すぐ石鹸がふにゃふにゃになる)で、結局、真鍮の石鹸入れには見切りをつけてしまったが、緑青は緑青で、別に大好きなティール・カラー(マガモ色)を想起させてくれるのであった(が、ティール愛については、それはそれでまた別の機会にでも……)。

理事を務める北海道・美唄の美術館の運営委員会が、理事長の兼務先の関係で時折、大通公園そばの北海道文化財団で開かれる。僕はその機会をいつも何気に心待ちにしているのだが、主にそれは文化財団が大通五丁目に所在する、その名も大五ビルに入っているからに他ならない。

「大五ビル」は初代所有者となる羽幌炭鉱鉄道によって昭和29年(1954年)に建てられた。前年の朝鮮戦争の終結に端を発した「石炭不況」のあおりを受けて、同社の経営もさぞや大変な時期だったに違いないが、竣工時地上5階(後に増築)の大五ビルは「外壁の一部には大理石、内装の階段のてすりやドアノブ、窓の鍵には真鍮を使うなど重厚な造り」で、当時は軍艦ビルの異名を誇ったという(鈴木商店記念館HP「大五ビル」より)。

大五ビルには、もちろん、こちらも雰囲気のあるエレベータも2機あるにはあるが、会議の日、僕は3階まで階段で上るのが常だ。そんなとき、階段の手すりといい、踏み板の角の滑り止めといい、真鍮という真鍮を一心不乱にピカピカに磨き上げておられる女性や男性の姿をかなりの頻度でお見掛けする。羽幌炭鉱鉄道から「軍艦ビル」の所有権を引き継いだ現在のオーナーさんの矜持と、その思いを愚直に受け止めるメンテナンスの現場の努力があって、大五ビルの風格と品格は保たれ、現代に引き継がれているのである。


もちろん、階段手すりの美しい輝きも、我が家のそこここにある真鍮製品とは大違い。真鍮はその経年変化も含めて美しい、とうそぶいたりもするが、大五ビルの階段を上り下りしながら上品に輝く黄銅色に一つ大きくため息をつくのもまた事実。美しいものは、なにかとハイ・メンテナンスなのである。

80年代の終わり、留学先のニューヨークで出会った知人が、

「いま、brass bedを絶賛物色中!」

としきりに口にしていたことを懐かしく思い起こす。恥ずかしながら、当時はまだ、ブラス=真鍮だということを知らなかったのだが、彼の理想のベッドに関する克明な説明を聴けば聴くほど、彼のいう、金属フレームのベッドとは真鍮製のヤツに違いない、と確信するに至る。実際、後ほど辞書で調べてみれば、やはりブラスが真鍮だったとき、小躍りして喜んだことを昨日のことのように思い出す。

以来、僕も理想のブラスベッドを探しながらこれまでの人生を生きて来た、ともいえようが、「理想の一台」にはまだ出会えてはいない。

え、ローラアシュレイのがあるじゃないか? いえいえ、あれはあくまでもブラス調ベッドでありまして、その実、ただのパイプベッドですから(もっとも、4本の支柱の先端の「ブラス風飾り」をいったん外して、台座を本物の真鍮製削り出し化粧板に取り替える辺りの小賢しいこだわり、心中お察しあれ)。

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