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佐々部清監督を偲ぶ

※見出し写真は2019年の第10回周南「絆」映画祭にて

“映画の伝道師になれ”


「映画の伝道師になりなさい」

これは、2009年、僕が山口朝日放送の番組「シネキング」のメインMCに「マニィ大橋」としてレギュラー出演が決まった時、佐々部清監督から言われた言葉です。

この番組は僕が新作・旧作問わず映画の紹介・解説ほする深夜番組で、9年間放送されました。

テレビで映画の解説をする…これは幼い頃からの夢でしたが、実は佐々部清監督も、テレビの映画解説者になることが少年時代の夢だったそうです。

だからなのか、僕がテレビで映画解説の仕事をすることを、自分のことのように喜んでくださいました。

監督はご自身のことを「永遠の映画小僧」と仰ってました。

たくさんの映画館があった下関で少年時代に観た「ウエスト・サイド物語」に心奪われ、中学生の頃「日曜洋画劇場」で解説を務めておられた映画評論家・淀川長治さんに弟子入りを希望するお手紙を出されたそうです。

淀川さんからは「今はしっかりと勉強をしなさい」と丁寧なお返事があったそうですが、その言葉通りに監督は勉強やスポーツに励みながら映画を浴びるように観て、当然のように映画への道を志され、上京後は大学、映画学校を経て、フリーの助監督として活躍されます。

「伝説の助監督」として難しい現場を鮮やかにさばく手腕は評判だったらしいですが、監督の話はいくつもあったにも関わらず「監督デビュー作は劇場公開作で」とテレビドラマやVシネマの話は断り続けていたと言います。

そして四十代半ばに映画「陽はまた昇る」で監督デビューを果たされます。この作品は、佐々部監督が助監督のキャリアの終わりに参加し、尊敬されていた高倉健さん主演の「鉄道員(ぽっぽや)」「ホタル」のプロデューサーであった坂上順さんの推薦で抜擢されたそうです。

その後、助監督時代に脚本を書き、故郷下関を舞台にした「チルソクの夏」、日本アカデミー賞最優秀作品賞受賞「半落ち」をはじめ、「カーテンコール」「夕凪の街 桜の国」「結婚しようよ」「ツレがうつになりまして。」「東京難民」など、多くの作品を遺されました。

ご自身はご自分の仕事ぶりについて「上手い、早い、安い職人監督」なんて仰りながらも、ニコッとしながら「だけどアカデミー監督だからね」と茶目っ気たっぷりに言われてました。

どの作品も人と人の温かい絆を描いた、鑑賞したあとに心が少し軽くなる、前向きになれるものばかりのような気がします。

「チルソクの夏」での出会い


僕が佐々部監督に初めてお会いしたのは2003年、「チルソクの夏」山口県先行公開の少し前でした。

「山口県西部の下関だけでなく、全県で盛り上げたい」と、佐々部監督が県東部の周南市にある映画興業会社、毎日興業を訪れた時に出会いました。

当時、僕は周南市を拠点とする地方紙の記者でしたが、その興業会社の社長さんが僕が勤めていた新聞社の社外取締役だったこともあって、僕は「映画に詳しい」という理由でこの社長さんによく呼び出されては、映画に関わる宣伝や企画のお手伝いをさせられて(笑)いました。

その時も「チルソクの夏」の試写会やキャンペーンを企画させてもらったのですが、何しろ佐々部監督は人生の中で初めて出会い、本格的にお話をさせて頂いた「映画監督」さんだったので、監督自らの要請に興奮し、かなり頑張って企画したことを覚えています。

初めてお会いした時、いろいろな映画の話をさせて頂きました。

「映画をよく観てますね」と年下の僕に、佐々部監督が敬語で話してくださったことが嬉しかったです。

それから山口県に帰られると何となく飲みに連れてってくださるようになり、飲むと何時間も映画談義をしながら、監督お気に入りの昭和歌謡をカラオケで歌う、という感じになっていきました。

佐々部監督は本当に映画の話をする時は楽しそうで、その姿は正に「永遠の映画小僧」でした。

映画談義をするたびに「本当に大橋君は映画馬鹿だよな」と言われたことも嬉しかったです。その頃、同じく佐々部監督の人柄や作品にふれて感動した地域の仲間たちと「佐々部監督周南応援団」を結成し、佐々部監督の作品を手弁当で支援させて頂くようになりました。

「カーテンコール」の時は前売り券の販売に全力で取り組み、みんなで協力して数千枚は売ったと思います。

試写会やイベントも企画・開催しました。下関の角島大橋を舞台に撮影された「四日間の奇蹟」では映画に登場するサヴァン症候群の天才ピアニスト少女の演出の参考にして頂ければ、と記者時代に取材をさせて頂いた方で、全盲と知的障害を持つピアニストの方を紹介させて頂いたりしました。

太平洋戦争末期の特攻兵器で、周南市や光市など、山口県に搭乗員の訓練基地があった人間魚雷・回天を描いた戦争映画「出口のない海」の時は、お手伝いに夢中になり、仕事も立ち行かなくなったので、僕は思い切って17年間勤めた新聞社を辞めました。

その時ちょうど40歳。子どもが3人、妻のお腹の中にもう1人いて、妻は突然の退職に驚いていましたが、僕的には幼い頃からの夢だった映画に携われることと佐々部監督のお役に建てる喜びでいっぱいで、今後については「まあ何とかなるだろう」ぐらいに思っていました。

佐々部監督との忘れられない思い出


この頃の忘れられない思い出がいくつかあります。

横山秀夫さんの小説「出口のない海」が佐々部監督と市川海老蔵さん主演で映画化される、とマスコミ発表された直後だったと思います。「参考にしたいから案内してほしい」と言われ、佐々部監督を周南市大津島の回天記念館にお連れしたことがありました。

大津島は僕にとっても何度も取材に訪れた場所で、辛いことがあると1人でフェリーに乗って島に渡り、記念館で海に出撃して散った若者たちの遺影や遺書を見て自分を奮い立たせることがたびたびありました。妻にプロポーズしたのも島から帰るフェリーの中でした。

佐々部監督は、記念館でひたすらに遺書や遺影、資料を長い時間をかけて黙って見つめていました。

そして記念館を出て、フェリーが港に着いてから、ファミレスで2人で食事した時です。僕が記念館を訪れた感想を聞くと、佐々部監督は「実はまだ、監督を引き受けるかどうか悩んでる」と言われました。

驚いて「え?どうしてですか?」と尋ねると、監督は何も言わずにカバンから一冊の脚本を取り出して、僕に「読んでみて」と手渡しました。

それは、きちんと製本された「出口ない海」の準備稿でした。

僕は「脚本 山田洋次」の文字に緊張しながら読み始めました。当時、僕はシナリオ雑誌なども購読していたので映画脚本自体は読んだことはありましたが、製本された撮影用の台本を読むことは当然初めてだったので、緊張しながら読み進めました。

ですが、読んでいくうちにその「世界」に入り込んでいきました。かなりのの時間は経過したと思いますが、その間、佐々部監督は黙ってコーヒーをお代わりして飲んでいました。

そして読み終わったことを告げると、佐々部監督は「どう思う?」と聞いてきました。僕は素直に感想を言うかどうか本当に悩んだのですが、正直に「ちょっと厳しいと思います」と答えました。

僕は原作も読んでいましたが、脚本は原作では重要だった現代パートを一切省き、主人公が甲子園の元優勝投手で肩を壊しながらも大学生の今も野球への夢を追い続けている、という設定は継承しながらも、人間ドラマを極力抑えたものになっていました。

原作の時系列も敢えて崩し、いきなり「回天」搭乗員を乗せた潜水艦の水中での戦闘シーンから始まり、そこから日時を戻して「回天」がどんな兵器なのか、どういう操縦法で特攻するのか、どんな風に訓練が行われたのか、に焦点を当てたものでした。

過酷な状況に置かれた青年たちを描いた群像劇として、興味深い脚本ではありましたが、正直、これまで家族愛や人同士の温かい繋がりを描いてきた佐々部監督の作風とは少し違う、と感じました。

そのことを素直に言うと、佐々部監督は「だろ?だから悩んでるんだ」と言われました。

佐々部監督としては前半は野球に賭ける青年たちの青春をしっかりと描いたうえで、後半は過酷な訓練に挑む姿を描くことで特攻兵器の残酷さや悲惨さをあぶり出していく、和製「フルメタル・ジャケット」(スタンリー・キューブリック監督による名作戦争映画)のような作品にしたい、という想いがあったようです。

そして怒られることを覚悟で、この脚本に大胆に手を加えることを山田洋次監督(脚本は山田洋次監督と「うなぎ」などの冨川元文さんの共作)に正直に言ってみる、それがダメなら監督を降りる、とまで仰いました。

その後、佐々部監督によると、山田洋次監督からは少々怒られたそうですが(笑)脚本の本筋は変えずに、年老いたメインキャラクターの1人が回天記念館を訪れる現代パートと、主人公のセリフに、監督が記念館で触れた実際の回天搭乗員の遺書にあった家族を想う「言葉」を加えることで納得して頂いたらしく、映画は無事完成しました。

DVDの特典映像で、山田監督が「佐々部君に監督してもらったお陰で、凡庸な戦争映画にならず良かった」と褒めているのを観てホッとしました。

僕は、佐々部監督から準備段階にも関わらず脚本を読ませて頂いたこと、そして感想を求められたことが映画好きであることを認められたような感じがして、何より嬉しかったです。

「出口のない海」の現場では、主にロケ地選びをお手伝いし、「できれば回回天基地があった周南市や光などの周辺地域で撮影したい」との佐々部監督の意向を受けて、美術監督の福澤勝広さんとロケハンをしながら昭和18年設定の野球場や主人公たちがたむろする喫茶店などのロケ地探しに協力しました。

そして本格的な撮影準備に入ると、エキストラの手配をはじめ、ロケ地となる施設や企業との調整など、地元に住んでいるからこそのお手伝いをやってました。そこは長年地方紙の記者をしていた時の人脈が大いに生かされました。

その頃、佐々部監督は僕が会社を辞めたことをしばらく知りませんでした。ある日、撮影機材をトラックに運び込んでいたら「そう言えば会社は?」と聞かれ「辞めました」と答えると絶句されていました。

その後、山口県内での撮影も終わりに近づいた頃、僕は映画会社の方に呼ばれました。その時、封筒を手渡され、中身を見ると30万円が入っていました。驚く僕に「少ないですが、一カ月分の給料です。是非受け取ってください」と言われました。正直、次の仕事の充ても無かった僕としては大変有り難かったです。

数年後、ある方から「大橋君の耳には絶対に入れないでね」と佐々部監督から言われたという、ある事実を知らされました。

それは佐々部監督が「出口のない海」製作時、映画会社に「僕のギャラを削ってもいいから、大橋君に50万円は払ってやってくれ」と頼み込んだ、ということでした。

僕は「20万円はどこへ行ったの?」と思いながら(映画会社は監督のギャラは削らずに、50万円と言われてもそこまで出せないから僕に30万円用意してくれたのだとは思いますが、今となっては真相は判りません笑)、佐々部監督の心遣いに男泣きしました。

佐々部監督のエールで実現した周南映画祭


2009年に周南映画祭を立ち上げる時も、佐々部監督にご尽力を頂き、開催にこぎつけることができました。

第1回で映画祭で「チルソクの夏」「出口のない海」を上映した時は感無量で、特に「チルソクの夏」は上映中ずっと泣きっぱなしでした。この時佐々部監督から「この映画祭はだれもお金儲けしてないのがいい。10回は続よう」とエールを頂きました。

佐々部監督には2019年の第10回まで通算5回もゲストとして来てくださいました。佐々部監督が「10回は続けよう」と仰ってくださらなかったら、映画祭は途中で断念していたと思います。実は資金難など存続が難しくなった決定的なことが何度かありました。

それでも続けられたのは佐々部監督のお陰だと感謝しています。佐々部監督はご自身の作品を安価で上映できるように調整してくださったり、ゲストもブッキングして頂くなど、具体的な支援をたくさんして頂きました。

しかしこの間、監督と僕との間で決定的な出来事が起こりました。

それは、僕が映画「恋」という作品でプロデューサーを務めさせて頂くことになり、周南「絆」映画祭で、脚本賞・松田優作賞を設立して、その最優秀賞受賞作「百円の恋」の映画化に奔走していた頃のことです。

僕は「恋」製作にあたって、佐々部監督のパートナーであるプロデューサー臼井正明さんに相談しました。

臼井さんは「たくさんの佐々部作品で手伝ってくれたお礼だよ」と快く手伝ってくださり、助監督さんや制作部の方など、専門的な知識が必要な核の部分のスタッフに佐々部組で経験を積んだ優秀な方々を派遣してくださいました。

また撮影現場にも訪れて頂き、アソシエイト・プロデューサーとして、主演の岡田奈々さんをはじめとする、俳優さんたちのケアなど、現場で支えてくださいました。

この時、僕は臼井さんをはじめ、佐々部組の皆さんにお世話になるに当たり、佐々部監督に正面から断りとご挨拶を入れることを怠ってしまいました。それは、映画製作に本格的に携わることになったことへの畏怖感からなのか、佐々部監督に接することが怖くなったのと同時に、何も言わなくてもわかってくれるだろう、という僕の甘えだったと思います。

そして「百円の恋」が進行する過程でも、周南「絆」映画祭内に脚本賞・松田優作賞を設立し、膨大な脚本を読まなければならなくなった時には佐々部監督に相談し、脚本の読み方のポイントなど、アドバイスを頂いていたにも関わらず、映画化が進むと、僕も連絡を躊躇してしまい、何となくそれっきりになってしまいました。

「百円の恋」の山口ロケの準備をしていた頃、ちょうど「恋」の製作時期とも重なっていて、そのまま忙しく日々が過ぎて行きました。

その結果、佐々部監督から僕の姿勢をきつく咎められ、A4用紙2枚分に及ぶ「絶縁メール」がある人を介して届きました。

「僕はただの映画馬鹿である大橋君が好きだったのに、今の大橋君は嫌いだ。映画の製作に中途半端に関わるようになってしまって、結局は困ってしまった挙げ句、他人に頼っているじゃないか。その姿勢は何だ」と。

それから、佐々部監督とは一切の縁が切れてしまいました。正直「コンチクショウ」とも思いましたし、自分勝手ですが、その時は「俺も悪いけど、弟子の成長が素直に喜べないのかよ」と佐々部監督を恨みました。

この頃、佐々部監督が娘のように可愛がっていた映画祭の女性スタッフ、Mさんからは「大橋さんと佐々部監督は、私から見れば親子です。子は親に反発し、家出をすることもあれば、言えないことだってあるでしょ。親も子には時にきつく当たるものです。親子ゲンカはいつか治まります。2人の間柄はこんなことで壊れるものじゃない、と私は信じています」と言われましたが、当時の僕にはそんな言葉は全く信じられませんでした。

“絶縁”から5年経っての仲直り


そして2018年、周南「絆」映画祭(第2回からこの名称で開催)で6年ぶりに佐々部監督を迎えることになりました。監督は映画祭に来れば実行委員長である僕と顔を合わせなければならないこと、トークショーの司会も僕がやることも承知したうえで来てくれました。

僕と佐々部監督の状況を知りながら、映画祭の仲間たちは佐々部監督の作品上映とトークショーを企画したのですが、僕は嫌とも言えず、内心は気まずく、メチャクチャ嫌でした。

ドキドキしながら迎えた映画祭本番では佐々部監督と簡単なご挨拶と打ち合わせはしたものの、当時のことは一切話さず、佐々部監督も必要以上のことは僕に話さず、あまり深く接しないまま、トークショーも無事終わって閉幕しました。

2人の冷え切った仲は山口県の熱心な佐々部監督ファンの間にはすでに噂になっていたようで、あるていどの事情を知る皆さんは、僕と監督が舞台で楽しそうにトークをしていることにザワついてましたが、まあ、そこは2人とも大人だからですが(笑)トークの内容はとても盛り上がりました。

この時、監督と丁々発止のトークをしながら、僕は「この人のことは大嫌いだけど、話はやっぱり合うな」と内心思っていました。

そして、2019年を迎え、佐々部監督が仰った「10回は続けよう」の目標を達成した周南「絆」映画祭。

第10回記念として、改めて佐々部監督をお招きして「種まく旅人~夢のつぎ木」と第1回で上映した「チルソクの夏」を再上映しました。僕は前年と同様、複雑な想いを抱きながら、映画祭の準備に当たっていました。

映画祭が開幕して、初日の「チルソクの夏」上映後のトークのあとだったと思います。

前年と同じようにおざなりの挨拶のあと、緊張しながらも佐々部監督と僕のトークが終了し、僕が休憩室に入って座っていると、そこに佐々部監督が入ってきました。

「大橋君お疲れ。第1回の映画祭でチルソク上映した時、2時間ずっと馬鹿みたいに泣いてたね。今日も泣いてただろ。相変わらずの映画馬鹿だな」

佐々部監督が僕のことを「映画馬鹿」と言われたのは、何年ぶりだったでしょうか。

それから、昔のように映画談義をしまくりました。

次回作のこともいろいろ喋ってくださって、気がついたら3時間ぐらい話してました。メチャクチャ楽しい時間でした。本当に、何もなかったかのように…。

佐々部監督は昔のまんまで接してくれました。これは、僕が佐々部監督から絶縁されたあとも、2人の仲を心配してずっとフォローしてくれていた仲間たちのお陰だと思います。

映画祭最終日、再びいろいろお話した最後に、これまでの失礼を心から詫びました。そして、その年に山口県下松市が市政施行80周年を記念して製作した映画「くだまつの三姉妹」で脚本を書いたこと、その作品を観てほしい、ということをお願いしました。監督は笑顔で「いいよ」と仰ってくださり、少し肩の荷が降りた気がしました。

結局、初脚本作を観て頂けなかったので、とても残念です。

この時会場にもいたMさんからは「だから親子って言ったでしょ」と言われました。

…でも、それが監督とお会いした最後になってしまいました…

湧き上がる想い


62歳という若さで突然佐々部監督が旅立たれた2020年3月31日、なぜか山口県内のマスコミから僕に問合せが殺到し、臼井さんをはじめ、関係者の皆さんと連携して、広報的な役割をさせて頂きました。

いろいろあったのに、僕に問い合わせが来ることが本当に不思議でしたが、これも御縁なのでしょう。

僕は2018年から、深夜番組を終えて土曜日の朝放送の情報番組で、映画の紹介・解説を担当していますが、佐々部監督が旅立たれた直後の放送で、監督の追悼特集をすることになりました。

僕は心に湧き上がるいろいろな想いを整理できず、この状態でテレビで喋れないと思い、「出口のない海」以来、仲良くして頂いている美術監督の福澤さんに電話をして相談をしました。すると福澤さんはこう言われました。

「……佐々部ちゃんはね、俺のせいで大橋の人生を狂わしちゃったんじゃないか、てずっと言ってたよ。『出口のない海』のときに、大橋君、新聞社辞めちゃったじゃない?それをずっと気にかけてたんだよ……」

「……大橋君が映画を作るって方向に行った時に、映画はそんな甘い世界じゃないって想いがあったんだよ。だからこその叱咤なんだよ。本当に心から心配してたんだよ……」

電話のあと、僕は泣きました。声をあげて。

そして放送日。生放送ですが、僕は清水さんという当時の担当女性ディレクターに「泣くかもしれないけど、特集の最後、生の言葉で、監督への謝罪と御礼を言わせてほしい」と頼みました。公共の電波で私的な想いを喋ることに抵抗がありましたが、清水さんも涙ながらに僕の話を聞いてくれ、「そうしないと大橋さんが前に進めないならやりましょう」と言ってくれました。

放送では嗚咽して言葉になりませんでしたが、佐々部監督への想いはしっかりと伝えました。本当に視聴者の方々には申し訳ありませんでしたが、放送後、たくさんの励ましのメールを頂いたことは、感謝しかありません。

佐々部監督は本当にある意味「親父」だったんだな、と思います。優しいんだけど、ちょっぴり怖い。今もこれを書きながら、思い出して泣いています。

佐々部監督に誓う「映画の伝道師」に


佐々部監督が旅立たれたあと、妹さんに贖罪の言葉を口にすると、「何があったかは存じませんが、あなたは裏切ってなんかないと思いますよ。これからも大橋さんらしく進んでください。兄もきっと安心します」との言葉を頂きました。

そして、つい先日、佐々部監督と高校時代からの親友で「八重子のハミング」の山口側プロデューサーを務め、亡くなる直前まで一緒に過ごして新作の準備も共にしていた西村祐一さんから「俺もそうだったんだけど、アイツは本当に親しい人間とは妙に衝突するんだよ。だから大橋君は家族と一緒で、うわべだけのつきあいじゃなかった、てことだよ。佐々部清に最も憎まれ、愛された男のひとりじゃない?」と言われ、嬉しかったです。

不肖の「息子」でしたが、僕はこれからも「親父」が言ってくれた「映画の伝道師に」を心に刻み、「映画」と向き合いながら、永遠の「映画馬鹿」でありたい、とそして「映画の伝道師」でありたい、と思います。

佐々部清監督
本当にお世話になりました
ごめんなさい、そして、ありがとうこざいました

心からの感謝、そして合掌を捧げます




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